太田述正コラム#13882(2023.11.30)
<竺沙雅章『独裁君主の登場–宋の太祖と太宗』を読む(その14)>(2024.2.25公開)

「・・・科挙の拡充とならぶ太宗の文化政策は、大規模な編纂事業であった。
 それは、『太平御覧』<(注90)>1000巻、『太平広記』<(注91)>500巻、『文苑英華』<(注92)>1000巻を編纂したことであり、これらの書物は、つづく真宗時代の『冊府元亀』<(注93)>1000巻とあわせて、宋の四大書とよばれ、宋初の文化事業として特筆される。・・・

 (注90)「梁の武帝が華林苑のアカデミーに徐勉ら700余人の学者を動員し,8年の歳月をかけて完成させた《華林遍略》720巻がその最初期のものである。《華林遍略》を基礎にして編纂されたのが北斉の《修文殿御覧》360巻,それをさらに3分の1の100巻に縮め詩文を加えたのが唐の《芸文類聚》,《修文殿御覧》を3倍にふくらませたのが宋初の《太平御覧》1000巻である。このうち六朝の2類書は逸文が存するのみである<。>・・・
 宋の・・一種の百科事典・・。李昉 (りぼう) ら 13人の編。 1000巻。・・・983・・・ 年成立。太祖の勅命により6年を費やして成った宋代の代表的類書。天,時序,地,皇王に始る 55部門に分類され,各部門がさらに小項目に分けられ,各項目に関連する事項が古典から抜粋,収録されている一種の百科全書。引用された書は 1689種にのぼ<る。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%BE%A1%E8%A6%A7-91964
 (注91)「宋代の物語全書。500巻。977年、『太平御覧』と同じく、李昉らが勅命を受けて編纂にとりかかり、翌年完成した。内容は、神仙、女仙、道術、方士から動植物に至るまで、類書風にたてられた92の項目のもとに、上代から宋代に至るまでの間に著された小説を集め、それぞれの話の末に出典を付記している。集められた話は、志怪(しかい)小説、志人小説、伝奇小説など、宋代以前の文言(文語体)小説。・・・
 なお成立直後に勅版が出されたが,あまり必要でない書とされてすぐ絶版になり,明に入って・・・1566・・・ 年に校刻出版<され>,初めて世に流布した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%BA%83%E8%A8%98-91965
 (注92)「<やはり、>李昉らの編。・・・書名は梁の蕭統(しょうとう)の『詩苑英華』に倣い、内容は蕭氏の『文選(もんぜん)』に続くものとし、梁陳から唐五代にわたる詩文の精華を収載すべく企図された。・・・『文選』にならって,賦,詩,歌など 37の文体に分類し配列。特に唐代の作品が多く,約9割を占める<。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E8%8B%91%E8%8B%B1%E8%8F%AF-128299
 (注93)王欽若(おうきんじゃく)、楊億(ようおく)らが北宋の真宗の勅を奉じて1005年編集に着手、13年に完成した。1000巻。皇帝の政治に資すために、古代から五代までの歴代の・・・歴代の皇帝や官僚たち・・・の政治に関する事績を、帝王部から外臣部まで31部1115門に分類して列記。当時現存した各種の書冊のなかから政治の要項を広く集めて編集<したもの。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%8A%E5%BA%9C%E5%85%83%E4%BA%80-69241

 このような大編纂事業を太宗が始めた意図<については、>・・・南宋の王明清<(注94)を嚆矢として、>・・・張端義<や>・・・清の・・・乾隆帝<や>・・・魯迅・・・<の言うように、>政治的な背景があったのだ<ろうか。>

 (注94)1127年~?。学者。『揮麈錄』を著す。
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%8E%8B%E6%98%8E%E6%B8%85
 『揮麈錄』’record<ed> the Song Dynasty’s rules and regulations, military affairs, politics, and anecdotes of bureaucrats and literati, as well as poetry and writing.’
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%8F%AE%E9%BA%88%E9%8C%84 (Google翻訳。漢語→英語)

 <それとも、>郭伯恭<(注95)>のいうように、・・・まったく政治的意図がなかったであろうか。

 (注95)1905~1951年。文学者、歴史学者、詩人。河南省出身。『四庫全書纂修考』執筆。
https://baike.baidu.com/item/%E9%83%AD%E4%BC%AF%E6%81%AD/18756658
 「『四庫全書』(しこぜんしょ・・・)は、・・・清朝の乾隆帝の勅命により編纂された、<支那>最大の漢籍叢書である。・・・
 <支那>国内のみならず、日本(太宰春台『古文考経孔氏伝』、山井鼎『七經孟子考文補遺』)、朝鮮、ベトナムの文献も収録されている。また、エウクレイデス『幾何原本』やサバティーノ・デ・ウルシスの著作のような西洋人の手になる書物も含まれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BA%AB%E5%85%A8%E6%9B%B8

 著者はやはり、古来の人々が説くように、南唐知識人を懐柔する意図があったと考える。・・・
 およそ、中国歴代の王朝では、天下統一を終えたのちの皇帝によって、こうした文化事業が大々的に行われるのがつねであった。
 たとえば唐の太宗の『五経正義』<(注96)>、明の永楽帝の『永楽大典』、清の康熙帝の『古今図書集成』などの編纂がこの礼である。

 (注96)「唐の太宗の勅を奉じて、孔穎達<(くようだつ)>等が・・・撰した『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』の五経の疏である。180巻。・・・
 唐の太宗は、経学の盛大なる様を誇示し、なおかつ南北の諸説を統一しようという意図を持って、孔穎達に代表される多くの学者を動員し、『五経義賛』を撰せしめた。これが後に改名されて『五経正義』となった。・・・
 国家による解釈の統一によって、科挙を受験する諸生は専らこれを暗記するのみとなってしまい、かえって経学の発展が停滞してしまったという側面もある。また、唐代以前に作られた他の注や義疏のほとんどが、姿を消すという結果を招いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%B5%8C%E6%AD%A3%E7%BE%A9
 「編纂(へんさん)にあたった学者の傾向から、南学の注釈を多く採用<している。>」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E7%B5%8C%E6%AD%A3%E7%BE%A9-63679

 それぞれに中国伝統の文治国家を標榜するとともに、知識人層の懐柔をめざしたものであった。」(167、170~171)

⇒ここの著者の論理は私の腑に落ちません。
 (下司の勘繰り的ではあれ、当たらずと雖も遠からぬように思われる)評価が、時代を超えて少なからぬ識者によって繰り返しなされてきたところの、宋の太宗の文化事業、だけが、突出した政治的意図の下、行われた、皇帝による文化事業だった、ということではないでしょうか。(太田) 

(続く)