太田述正コラム#13902(2023.12.11)
<母のことなど(その6)>(2024.3.6公開)

 困ったことに、母について、書くことが既に尽きかけている感が・・。
 いや、なんとか頑張って、続けましょう。
 さて、予後で何もなくてもそうなったのか、それとも、私を産んだからだったのかは定かではありませんが、母は、極度に体力がなく、家にいるときは、すぐ体を横にして安静にする生活をその突然死まで続けました。
 ですから、料理も簡単なものしか作りませんでした。
 家のメンテも掃除も碌にやらなかった、というか、やれませんでした。
 (エジプト時代だけは、母の指示の下、サーバントのハッサンが全部やってくれましたが・・。
 ハッサンはそんな母のことをsleeping madameって呼んでいたような・・。)
 やむをえないということは重々承知しつつも、子供時代の私はそれが不満でした。
 私が生まれたのは、父母の故郷である三重県四日市市であり、最初に住んだのは、海沿いの工場群近くの下町の猫の額のような父の元実家(同市稲葉町1298)で、当時はまだ存命だった父方の祖母が同居していて、私をよくおんぶして散歩に出ていたそうです。
 そんなところに、父の愛人が父母と私がいたこの家に乗り込んできて、結婚してからご無沙汰になってしまった父をなじり、寝ていた私を蹴り転がすという「大事件」が起こります。
 私は、当然激しく泣き出したらしいけれど、赤ん坊だったので、何の記憶もありません。
 幸い、怪我はしなかったようです。
 このおかげで、父はこの愛人と完全に手を切るに至ったといいます。
 その後、よちよち歩きを始めた私が、最寄りの三滝川(注5)の河口近くに自分で歩いて行って落っこち、もうすぐ海というところまで流されていたのを、既に夕刻になっていて、本来川沿いの道を歩いている人などいなかったはずなのに、たまたま犬を散歩させていた青年が、最初は人形だと思いつつもどうも怪しいと思い、飛び込んで私の命を救ってくれた事件が発生するわけです。(コラム#省略)

(注5)歌川広重 東海道五十三次 四日市(三滝川)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%BB%9D%E5%B7%9D

 なお、財産形成に殆ど関心がなかった父に代わり、母は、財布のひもを握るだけでなく、財産形成に努め、そのおかげで、私が4歳の時に、この三滝川と海蔵川(注6)の間の中島町・・地番を思い出せない・・に広い庭付きの一戸建て住宅を建てることができ、そこに引っ越します。
 
 (注6)海蔵川の桜並木
https://www.kankomie.or.jp/event/15444
 三滝川と海蔵川の位置関係
https://www.mapion.co.jp/m2/34.97271439,136.62368397,16/poi=L0600790

 当時、父は、大阪の中之島に本社があった商社のトーメン(注7)の名古屋支社に勤めており、本社勤務になったとしても、週末に関西本線(注8)を使って帰宅することが容易な四日市に永住するつもりで母によるこの住宅建設計画を承諾したのでしょう。

 (注7)1920年に三井物産綿花部が独立して創立され、2006年に豊田通商と合併して消滅した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3
 (注8)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A5%BF%E6%9C%AC%E7%B7%9A

(続く)