太田述正コラム#2848(2008.10.13)
<ル・クレジオのノーベル文学賞受賞(その2)>(2008.11.28公開)
3 米国の主要メディアの反応
 ロサンゼルスタイムスは、公平に世界中に目を開いているとするエングダールの言うことを額面通り受け止めるべきだとする評論家の意見を紹介しています。エングダールらが今後アフリカ、インド、支那といった巨大な地域から受賞者を発掘するかどうかを見守っていくべきだというのです。
 一度エングダールに批判的な言辞を弄したオーゲンブローム(コラム#2828)も、ル・クレジオの受賞が決まってからは、「米国内での騒ぎは不幸だった。ノーベル文学賞を矮小化するからだ。ノーベル賞委員会なかりせば、われわれはイムレ・ケルテッツやエルフリーデ・イエリネクを読んだだろうか。これらの作家をわれわれに紹介してくれた同委員会に誉れあれ!」とエングダールらへの賛辞を口にするに至りました。
 この記事は続けて、米国の読者や評論家が同賞が米国人に授与されるべきであるとするのは、いささか傲慢であるのみならず、われらの文化的覇権意識の表明以外の何物でもない、と記しています。
 そして、今年同賞候補者と目された米国人であるところのフィリップ・ロスとジョイス・キャロル・オーツはどちらも落第だとまで記しています。
 すなわち、ロスは委員会が嫌うところの、授与に向けての自らの運動を積極的に行ったし、オーツは率直に言って同賞のレベルに達していない、というのです。
 さすがに言い過ぎたと思ったのか、この記事は、最後の方で、しかしながら同委員会が公平無私である保証はないとし、2005年に同委員会がイエリネクを同委員会が選んだ時、委員のクヌート・アーンルンド(Knut Ahnlund)が、イエリネクの作品は、「めめしく(whining)、楽しくもない公的ポルノ」であって、「あらゆる進歩的潮流に対し修復不可能な損害を与えただけでなく、芸術としての文学に対する一般的見方を混乱させてきた」として抗議の委員辞任を行ったことは記憶に新しい、と記しています。
 (以上、
http://www.latimes.com/features/books/la-et-ulin10-2008oct10,0,1591472,print.story
(10月11日アクセス)による。)
 また、ワシントンポストは、ノーベル賞委員会こそ島国根性(insular)であるとする米国内での見方は間違っていたと記しています。
 そして、エングダールのストックホルムでの受賞者発表の記者会見の際の次のような発言を引いています。
 「今日、偉大な作家をその国籍で定位置を示す(locate)することはどんどん困難になってきている。彼らはしばしば亡命先で作品を書く。・・・そして彼らは自分の生まれた文化から他の文化に身を移すことによって刺激を受ける。・・・<ル・クレジオは、>旅行者であり、世界市民であり、遊牧民だ。・・・彼は、厳密に文化的観点から見ればフランスの作家とは言えない。彼は異なったフェーズを経て発展してきた作家であって、・・・彼は多様性を持つ偉大な作家であり、他の諸文明、他の思考形態、欧米以外における生活形態を彼の作品の中にとりこんでいる。」
 そして、ル・クレジオ自身、パリでの受賞会見の際の、彼自身の多様な背景を強調した発言を引いています。
 「私はフランスから出発したが、私の父親はモーリシャス生まれの英国市民だった。だから私は自分自身を、現在の欧州における大勢の人々同様、混淆的存在と見ている。」
 その上でこの記事は、エングダールの「米国は孤立し過ぎており、島国根性が過ぎている。彼らは外国の小説を余り翻訳しないし、文学についての大議論に真の意味で参加しようとしない。」との発言はその通りだとしています。
 そして、フランスのガリマール書房の幹部の言、「誰も米国文学の質が低いとか面白くないなどと言う人はいない。<しかし、米国以外の世界の作品の大部分を無視することで>英米の人々は文学についての議論に参加していない。」を引いています。
 この記事は、ル・クレジオ自身の、「われわれは、考え方とイメージの混沌の爆弾の洗礼を受けるというやっかいな時代を生きている。文学の役割は恐らくこの混沌のこだまを伝えるところにある。」という言葉で終わっています。
 (以上、
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/09/AR2008100900243_pf.html
(10月12日アクセス)による。ただし、一部
http://www.nytimes.com/2008/10/10/books/10nobel.html?_r=1&oref=slogin&ref=world&pagewanted=print
前掲で補足した。)
 ガリマール書房の幹部が米国の話の中にさりげなく英国を引きずり込んでいるところ・・「英」米の人々・・はいかにもフランス人らしいですね。
4 終わりに
 こうして今年のノーベル文学賞論争は、米国側がほぼ全面的に白旗を揚げる形で終わりました。
 最後に、ガーディアンのうがった見方をご披露してこのシリーズを終えたいと思います。
 「今年のノーベル賞受賞者は米国人以外ばかりだったことが印象に残る。一番端的には、エイズ・ウィルスを発見したLuc Montagnier と Francoise Barre-Sinoussiへのノーベル医学・生理学賞の授与だ。その隠れた意味は、米国のウィルス学者のRobert Galloが最初の発見者であるとされてきたのは誤りだった、ということだ。」(
http://www.guardian.co.uk/books/booksblog/2008/oct/09/nobel.le.clezio
前掲)
 確かに経済学賞こそ、9年連続で米国人(ニューヨークタイムスのコラムニストとしても活躍しているプリンストン大学のポール・クルーグマン教授(55歳))に授与された(
http://sankei.jp.msn.com/world/america/081013/amr0810132101001-n1.htm
。10月13日アクセス)ものの、物理学賞は日本人2人と日系米国人1人、化学賞は日本人1人、米国生まれの支那系米国人1人、「純粋」米国人1人でしたし、平和賞もフィンランド人のアハティサーリ前大統領でしたから、今年は米国にとってはノーベル賞厄年かもしれませんね。
 ここでトリビアを一つ。
 化学賞受賞者の一人、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授のロジャー・チェン(Roger Yonchien Tsien=錢永健。1952年~) は、支那の五代十国(Five Dynasties and Ten Kingdoms)時代(907~960年)の呉越(Wuyue)国(都は杭州。907~978年)の錢謬(Qian Liu =Tsien Liu) 国王の34代目の子孫です(
http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Tsien
。10月13日アクセス)。
(完)