太田述正コラム#13952(2024.1.5)
<映画評論113:武士の一分>(2024.4.1公開)

1 始めに

 「『武士の一分』(ぶしのいちぶん)は、2006年製作の日本映画。主演は木村拓哉。原作は時代小説『盲目剣谺返し』(『隠し剣秋風抄』収録、藤沢周平作)。山田洋次の監督による『たそがれ清兵衛』『隠し剣 鬼の爪』と並ぶ、「時代劇三部作」の完結作。興行収入は40億円を超え、松竹配給映画としての歴代最高記録(当時)を樹立した(後に、『おくりびと』がこの記録を更新)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E3%81%AE%E4%B8%80%E5%88%86
ということから、ご存知の方も多いと思われるこの映画、私自身CATVで以前鑑賞したことがあり、『娼婦ベロニカ』に比べると、記憶が蘇る場面が多かったけれど、ストーリーはほぼ忘れていて、当時もそうだった筈ですが、深く感動させられました。
 なお、『たそがれ清兵衛』も『隠し剣 鬼の爪』も、Amazon Primeで以前に鑑賞しています。
 (当時の私による映画評はなきに等しいものの、鑑賞した事実は、それぞれ、コラム#10830、と、コラム#11399に出てきます。)

2 本題

 上記三部作には、いずれも縄文的弥生人・・最近、弥生的縄文人、と誤って何回か記してしまったけれど、訂正しておきます・・たる男性の主人公に縄文人たる女性の準主役が登場します。
 その中でも、今回の準主役の檀れい(1971年~)は、演技力があるだけでなく、美人度がズバぬけています。
 (準主役は、『たそがれ清兵衛』では宮沢りえ、『隠し剣 鬼の爪』では松たか子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9D%E3%81%8C%E3%82%8C%E6%B8%85%E5%85%B5%E8%A1%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%97%E5%89%A3_%E9%AC%BC%E3%81%AE%E7%88%AA )
 そんな彼女の活躍実績がイマイチの感がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E3%82%8C%E3%81%84
ことが不思議です。
 ところで、この3部作の原作者の藤沢周平の作風を生み出したものは、彼の故郷である鶴岡(庄内地方)を江戸時代に知行した庄内藩の後半期の高度に人間主義的な藩風の余韻である、と私は考えています。
 それは、同藩は、「藩主<が>・・・戦国武将で徳川四天王の1人である酒井忠次の嫡流<であり、>・・・転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が極めて固い。たとえば、天保期に起きた三方領地替え(後述)では領民による転封反対運動(天保義民事件)によって幕命を撤回させている。また、幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦したほか、敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万両の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。現代でも酒井宗家は庄内に居住しており、当主は殿と呼ばれることすらある・・・。これら一連の藩主擁護活動は本間光丘<(みつおか。1733~1801年)>による藩政改革に端を発している。この藩政改革以後、領民を手厚く保護する政策が基本姿勢となり歴代藩主はこれを踏襲したため、領民たちは藩主への支持を厚くしていき、藩の危機においては士民一丸となって協力する体制が出来上がっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%86%85%E8%97%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%96%93%E5%85%89%E4%B8%98 (<>内)
というユニークなものであり、近傍の旧米沢藩の置賜を「東洋のアルカディア(桃源郷)」と称賛したイザベラ・バード
https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/course/course_2021y/yamagata_01_2021y.html
が庄内を訪問して庄内評を残す機会がなかったのは残念です。
 (庄内、米沢両藩の間には、「・・・1791年・・・、米沢藩主上杉治憲(鷹山)・・次のオフ会「講演」原稿に登場予定・・により隠居の身から中老に就任した莅戸善政<(のぞきよしまさ)>は、・・・1794年・・・に光丘を酒田に訪ねて金穀を借り軍備を修め、田地の開拓などをすることができた。鷹山の治績がおおいに上ったのは、江戸の三谷、越後の渡辺に加えて、光丘の献替が大きかったとされる。莅戸は、光丘の死去のさいには弔文を送ってその死を悼んでいる。また、後に本間光暉(光丘の子である光道の養子)の代になって、庄内藩が幕命で石高が半分の長岡に国替えを命じられたさい(三方領知替え。のちに撤回)、藩の移転費用をねん出するため本間家が他藩や商人に借金を申し入れたところ、足元を見られことごとく断られるなか、米沢藩のみが旧恩に応えて資金を提供してくれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%96%93%E5%85%89%E4%B8%98
という縁(えにし)があります。)