太田述正コラム#13960(2024.1.9)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x3)>(2024.4.5公開)

 最後に、昌平君(BC271~BC223年)についてです。↓

 昭襄王36年(紀元前271年)、前年に春申君<(注6)>と共に人質として秦に入っていた楚の太子完(後の考烈王<(注7)>)と昭襄王の娘の間に生まれた。

 (注6)?~BC238年。「姓は黄、諱は歇(あつ)。戦国四君の一人。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%94%B3%E5%90%9B β

 (注7)?~BC238年。「頃襄王の子として生まれ、太子に立てられた。頃襄王27年(紀元前272年)、楚が秦と和平を結んだ時、人質として秦に入った。・・・頃襄王36年(紀元前263年)、父の頃襄王が病に倒れると、太子完は帰国して・・・楚の王位に就いた(考烈王)。・・・
 考烈王4年(紀元前259年)、秦が趙を攻め寄せてきたとき、趙の公子の平原君(趙勝)と講和を結ぶ対談をしたが、考烈王は前に秦に侵攻を受けたこともあり、渋って講和がまとまらなかった。これに業を煮やした平原君の食客の毛遂は剣を帯びて、考烈王の目前に向かい「秦の白起は楚の首都を蹂躙して楚の父祖を辱めました。今回の合従は趙のためではなく、楚のためであります」と述べ、毛遂の働きかけで、楚と趙の盟約が成立した。
 考烈王7年(紀元前256年)、楚の援軍が新中に達すると秦軍は退いた。同年、魯を攻め滅ぼし、その地を併合した。
 考烈王22年(紀元前241年)、春申君が楚・趙・魏・韓・燕の5カ国連合軍を率いて、秦を攻撃した。寿陵を奪い、函谷関を攻めたが、敗走した(函谷関の戦い)。同年、東方の寿春に遷都した。
 考烈王25年(紀元前238年)、考烈王は側室の兄の李園(かつての春申君の食客)に後事を託して薨去した。この後、李園は春申君を殺害して公子悍を幽王として即位させ、自らは宰相の地位に就き権力を握った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E7%83%88%E7%8E%8B

 昭襄王44年(紀元前263年)、春申君が太子完を楚に逃がす<(注8)>と、<昌平君は、>華陽夫人(秦の孝文王正室、楚の公女)に養育された。

 (注8)「頃襄王35年(紀元前264年)、楚の国元で頃襄王が病に倒れた。このままでは国外にいる太子完を押しのけて他の公子のうちの誰かが王となってしまう可能性が強いと、黄歇は秦の宰相の范雎に説いて太子完を帰国させるように願った。范雎からこれを聞いた昭襄王はまず黄歇を見舞いに返して様子を見ることにした。ここで黄歇は太子完を密かに楚へと帰国させ、自らは残ることにした。事が露見した後、昭襄王は怒って黄歇を誅殺しようとしたが、范雎のとりなしもあり、代わりに太子完の弟である公子顛(昌文君)を代わりに人質に要求したことで話はまとまり、黄歇は楚へと帰国することができた。その3カ月後に太子完が即位して楚王となった。
 黄歇は考烈王よりその功績を認められて、令尹に任じられ、淮北(淮河の北)の12県を与えられ、春申君と号した。春申君はその元に食客を3千人集めて、上客は全て珠で飾った履を履いていたという。客の中には荀子もおり、春申君は荀子を蘭陵県の令(長官)とした。
 考烈王5年(紀元前258年)、趙の首都邯鄲が秦によって包囲され、平原君が救援を求める使者としてやって来た。春申君はこれに応えて兵を出し、秦は邯鄲の包囲を解いて撤退した。・・・
 その後、軍勢を動員して、魯を滅ぼした。
 考烈王22年(紀元前241年)、楚・趙・魏・韓・燕の合従軍を率いて、秦を攻めたが、函谷関で敗退した(函谷関の戦い)。この失敗により、考烈王は春申君を責めて疎んじるようになる。」(β)
 范雎(はんしょ。?~BC255年?)。「魏の人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E9%9B%8E

 荘襄王元年(紀元前249年)、秦の朝廷に出仕。
 秦王政元年(紀元前246年)、秦王政の時代に御史大夫となり呂不韋を補佐。
 秦王政9年(紀元前238年)、嫪毐が背くと叔父の昌文君(公子顛)<(注9)>と共に鎮圧した。

 (注9)BC270~BC226年。「秦の人質であった兄の太子完が黄歇の機転で昭襄王に無断で楚に帰国した。激怒した昭襄王は黄歇の死を賭した態度に感服したが、代わりに太子完の人質時代に、頃襄王の側室がもうけた公子顛を人質として差し出したことで、丸く治まったという。
 秦王政9年(紀元前238年)、嫪毐が背くと、甥の昌平君(公子啓)と共に鎮圧した。この功績により、秦王政から昌文君に封じられ、秦の左丞相となる。また、相国だった呂不韋は罷免された。
 秦王政21年(紀元前226年)、平輿にて死去した。1975年、中華人民共和国湖北省孝感地区雲夢県睡虎地にて発見された竹簡群の『睡虎地秦簡』によると、楚の国人たちに昌文君を楚王に擁立する動向があったと記されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E6%96%87%E5%90%9B

 秦王政10年(紀元前237年)、呂不韋が相国を罷免された後は、嫪毐の反乱を鎮圧した功績が評され右丞相<(注10)>となった。

 (注10)「丞相(じょうしょう)は、古代<支那>の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。・・・
 丞相が2名置かれることがあり、その場合それぞれ「右丞相」「左丞相」と呼ばれた。王朝によってその上下関係に違いがあり、秦漢では右が上、魏晋以降は左が上となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%9E%E7%9B%B8

⇒この時点で、秦の左丞相は昌文君昌平君、右丞相はその甥の昌平君だったわけであり、楚の公子達が秦王政の王政を牛耳るに至っていたことになります。(太田)

 秦王政21年(紀元前226年)、楚攻略に必要な兵数をめぐっての議論で王翦が将軍を罷免された際に、秦王政を諌めたため怒りを買って昌平君も丞相を罷免された。
 また、秦は秦王政17年(紀元前230年)に滅ぼした韓の旧都新鄭(現在の河南省鄭州市新鄭市)で韓の旧臣による反乱が起きたため、鎮圧すると韓王安を処刑してこれを完全に滅ぼした。
 このために楚の旧都郢陳(現在の河南省周口市淮陽区)の民が動揺したため、楚の公子でもある昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた。
 秦王政22年(紀元前225年)、李信と蒙恬率いる20万の秦軍が楚の首都郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)へ向け侵攻。秦軍が寿春に迫ったとき昌平君がいる郢陳で反乱が起き、李信の軍がこれを討ちに向かったところを楚の将軍項燕の奇襲により秦軍は壊滅的打撃を受けた。
 秦王政24年(紀元前223年)、異母兄弟の楚王負芻が秦に捕らえられ楚が滅亡すると、項燕により淮南で楚王に立てられ秦に背いたが、王翦・蒙武に敗れて戦死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B

⇒楚滅亡後、(楚の公女の華陽太后に秦で養育された)昌平君を楚王に擁立した項燕(?~BC223年)は、「項羽・・・の祖父にして、項梁・項伯の父」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%87%95
であり、この項羽を養育したのが、項羽の叔父の項梁であり、項羽は、同じく項梁傘下で同じく楚出身の劉邦と競い合いつつ秦帝国を滅ぼすわけですが、項羽と劉邦が敵対後一時的に和解したところの、鴻門の会のおぜん立てをしたのは項羽のもう一人の叔父の項伯です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BD
 こういったことから、漢が春秋戦国時代の終焉をもたらしたことは、楚が最終的に秦に勝利したことをも意味する、と、私は考えるに至っているわけです。(太田)