太田述正コラム#13968(2024.1.13)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x7)>(2024.4.9公開)

二 孝公

 穆公は第9代公であったところ、孝公(BC382~BC338年。在位BC361~BC338年)は第25代公。「秦の孝公元年(紀元前361年)、黄河及び華山から東には、強国が6つあった。すなわち、斉の威王・楚の宣王・魏<(注16)>の恵王・燕の文公・韓の哀侯・趙の成侯である。

 (注16)紀元前349年<に>・・・晋から趙・魏・韓(三晋)が独立し<、これをもって>・・・春秋時代と戦国時代の分かれ目と<するのが通説。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%B6%E5%88%86%E6%99%8B

⇒このような下剋上が、晋以外の諸大「国」では斉・・前386年、姜斉から田斉に変わった・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E6%96%89
を除いて起こらなかったことが不思議だ。(太田)

 その他の十数カ国は、淮水と泗水のあいだの狭い地域に押しこめられていた。
 これらの強国のうち、楚と魏は秦と境を接していた。魏は鄭を起点に洛水に沿って長城を築き、北は上郡まで版図を広げていた。また楚は漢中を中心として南は巴・黔中にまで勢力を広げていた。
 周王室が衰えてからというもの、諸侯は力によって対立し、競って領土を拡大したのである。秦ははるか西方の僻地にある雍城<(注17)>に都をおいたため、中原の諸侯から夷狄同様にみなされ、会盟に招かれることもなかった。

 (注17)ようじょう。「春秋時代の秦の国都。6代君主の徳公元年(前677年)から24代君主の献公2年(前383年)まで19代294年間、秦としては最も長い期間国都であった。その後櫟陽に遷都した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%8D%E5%9F%8E
 秦の首都は、秦邑→西犬丘→汧邑→汧渭之会→平陽→雍城→涇陽→櫟陽→咸陽、と変遷した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6

 孝公は仁政に努めた。孤児や寡婦を救済し、戦士を優遇し、また論功行賞を公平にするとともに国中に布告を出した。
 ・・・ここに賓客はじめ群臣に告げる。奇計を出して、わが秦を強大にする者には、高い位と領邑を与えるであろう・・・
 そのころ、衛の公孫鞅(以後、衛鞅)は、孝公の布告を伝え聞いて秦に入国した。・・・
 孝公は・・・、衛鞅を・・・抜擢し、国政改革の命令を下した(紀元前359年/『史記』六国年表では紀元前356年)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)

 商鞅(BC390~BC338年):「<彼によって、>紀元前356年、・・・断行<された>・・・第一次変法<の>・・・主な内容は以下の通り。
・戸籍を設け、民衆を五戸(伍)、または十戸(什)で一組に分ける。この中で互いに監視、告発する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて訴え出ない場合は什伍全てが連座して罰せられる。逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。
・一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる。
・戦争での功績には爵位を以て報いる。私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる。
・男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。

⇒商人蔑視が気になる。(太田)

・遠縁の宗室や貴族といえども、戦功のない者はその爵位を降下する。
・法令を社会規範の要点とする。・・・
 紀元前350年、秦は雍から咸陽へ遷都した。・・・

⇒「注17」と整合性がとれないが・・。
 なお、始皇帝の実母の趙姫は、情夫の嫪毐がクーデターを決行したが失敗すると一時雍城に幽閉されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%A7%AB_(%E8%8D%98%E8%A5%84%E7%8E%8B) (太田)

 この年に公孫鞅はさらに・・・第二次変法・・・を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。今回の主な内容は以下の通り。
・父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。
・全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。
・井田を廃し田地の区画整理を行う。
・度量衡の統一。
 秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見るとこれは野蛮な風習とされていた。一番目の法は野蛮な風習を改めると共に、第一次変法で分家を推奨したのと同じく戸数を増やし、旧地にとどまりづらくして未開地を開拓するよう促す意味があったと思われる。二度の変法によって秦はますます強大になった。
 紀元前341年の馬陵の戦いで斉の孫臏<(注18)>によって魏の龐涓<(注19)>が敗死すると、紀元前340年には魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐した(呉城の戦い)。

 (注18)そんぴん。「戦国時代の斉の武将、思想家。兵家の代表的人物の一人。孫武の子孫であるとされ、孫武と同じく孫子と呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E8%87%8F
 (注19)ほうけん。「若いころは同門の孫臏・・・とともに学んだ。彼は孫臏と比較して、才能においてはかなわないと嫉妬した。
 後に魏の恵王のもとに仕えて、将軍となった。このときに権威を利用して孫臏を陥れようと目論んだ。ある年に龐涓は配下を派遣して孫臏を食客として魏に招聘した。孫臏が来ると・・・冤罪に陥れて、両足を切断して額に入墨を入れる処罰を下し・・・た。
 しかし、斉から公族の田忌が使者として魏に来たため、孫臏は人を派遣して巧みに田忌のもとに逃れて、田忌とともに斉に戻った。
 十数年後の紀元前342年に魏は、太子申を総大将に、龐涓を副将として趙と連合して韓を猛攻したので、韓は斉に援軍を要請した。斉の威王は田忌を将軍に、孫臏を軍師として援助させ・・・龐涓<を>自害<ないし戦死に追い込み、>・・・太子申を捕虜と<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%90%E6%B6%93

⇒馬陵の戦いの後、「凱旋した田忌であったが、宰相の鄒忌の讒言によって威王に叛意を疑われてそのまま楚に亡命することとなった。
 ・・・龐涓を失った魏はこの戦いをさかいに国力が衰微し始め、秦の侵略を防ぎきれなくなってのちに魏の恵王は韓の昭侯とともに斉に従属することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%99%B5%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 その斉の「威王<は、>・・・前334年、・・・魏の恵王とともに正式に王号を自称した。・・・<なお、その父の>桓公は臨淄に稷下学宮<(後出)>を開<いている。>・・・
 前298年から前296年に、斉と韓・魏が合従し秦の函谷関に侵攻し、秦に和を求めた。前288年、秦の昭襄王は西帝、湣王は東帝を名乗り、共同で趙を攻めた。蘇代は帝号を名乗る不利益を説き、湣王は王号に復称した。同年十二月、呂礼が秦に派遣され昭襄王の帝号を王号に復称した。前286年、宋の内乱に応じて宋を滅ぼし、南は楚、西では三晋(趙・魏・韓)に侵攻した。<田>斉は全盛期を迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%96%89
というのに、斉が天下統一とは言わないまでも秦以外の諸国の統一を果たせなかったのは、下剋上後、まだ、半世紀しか経っておらず、権威が著しく不足していたからではなかろうか。
 なお、孫臏や(後出の)呉起のような軍師・・もっとも呉起はその枠を超えているが・・を秦に招聘する動きが全くなかったのは、私がかねてから指摘しているように、秦のように軍が精強で量的にも不足がなければ、基本的に、正攻法を採れば足りるのであって、軍師など不要だからだ。(太田)

(続く)