太田述正コラム#13984(2024.1.21)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x15)>(2024.4.17公開)

 私は、墨子(墨翟)は楚人であると見ている(コラム#13780)ところ、以上を踏まえれば、始皇帝は、楚発祥の思想の下に行動したことになりそうだ。
 この際、墨子と孟子の関係について、付言しておきたい。↓

 「孔子は軍事を政治に不可欠と認識しながらも、軍事よりも経済活動、さらには民の政治への信頼感を重要であるとした。・・・さらに徹底した無差別平等の「兼愛」を主張した墨家が、こうした儒家の戦争への態度を不徹底と捉える中で、侵略戦争を否定する非攻説を主張したことは想定してもよいであろう。そして、墨家を批判しながらも、所説に共通性を強く持つ『孟子』は、戦争についても墨家に近接した主張を展開している。・・・
 『論語』では、孔子は、禮樂と共に征伐が「天子より出」ることを重視して、それが諸侯や大夫、さらには陪臣の手に渡ることを危惧する。下剋上を批判するのである。だが、「征」と「伐」とを分け、戦争の正当性を論ずることはない。・・・
 『墨子』<は>・・・一 周の武王が殷の紂王を武力で打倒したことを正当化するため、その戦いは「攻」ではなく「誅」であったと主張する。・・・
 <それは、結果として、>出現しようとしている大帝国への理論を提供した、と<いう>主張<を>す<る者もい>る。・・・
 ・・・『孟子』<は>「義戰」ではない「征」以外の戦いを否定することで、戦争を止めようとする・・・。
 『孟子』が「義戰」を肯定したのは、<『墨子』同様、>・・・周の武王が、放伐により殷の紂王を討ち、<『孟子』では使われていない言葉だが、>革命<、>を起こしたことを正<当>化するためでもあった。」(渡邉義浩「墨子の非攻と『孟子』の義戰」より)
https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2022/10/460-453_Yoshihiro-WATANABE.pdf
 なお、「<支那>において、孟子の地位は宋代以前にはあまり高くなかった。・・・
 孔子(武人の子)や、後代の朱熹・王陽明らと異なり、孟子は武人ではなく、兵学を修めず、軍事指揮経験がなく、著作には六芸など実学的教養への言及がない。「孟母三遷」の伝承は、それが事実なら、孔子が君子の教養として弟子たちに修養を勧めた「六芸」を著しく侮辱するものであり(墓地における礼は六芸の第一、市場における数は六芸の第六だが、孟母はこれを賤業と見下した)、孟子は孔子たちがもっとも嫌悪したであろうステレオタイプの差別主義者・出世主義者の母親によって育てられたことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90

 最後に、墨家の思想に関しては、「墨家<が、>土木、冶金といった工学技術と優れた人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果を挙げた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90 前掲
ことも忘れてはなるまい。

(続く)