太田述正コラム#14054(2024.2.25)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その9)>(2024.5.22公開)

 「いまひとつはヨコ、つまり対外関係の変化で、内政とも無縁ではない。
 3世紀から6世紀にかけて、北半球の気候は寒冷化を強め、内陸アジアの乾燥寒冷な草原地帯に住む遊牧民の集団が、温暖湿潤の地域へ移住をはじめた。
 こうした移民が隣接する農耕世界の既成秩序を攪乱する現象は、ユーラシアの各地で生じている。
 ローマ帝国のいわゆる「民族大移動」が最も有名ながら、そればかりではない。
 東西で共通してみられる歴史事象なのである。

⇒下掲↓
 「これまでの気候の移り変わり」
http://atmenv.envi.osakafu-u.ac.jp/aono/clihis/ 
を見る限り、寒冷期は、3~5世紀ではなく、5~8世紀(古代後期小氷期)だったようですが・・。(太田)

 遊牧集団をふくめ、自立的な軍事勢力が各地に分立割拠する形勢は、東アジアも同じだった。
 中国・中原はまさしく、その主要な舞台である。
 数百年間安定をみてきた秩序は紊乱し、治安は悪化の一途をたどった。
 それがじつに「三国志」の世界の開幕と漢王朝の終焉をもたらす。
 騒乱の口火を切った董卓<(注13)>は、西北の遊牧集団の出自だったし、以後の曹操・袁紹<(注14)>ら有力な割拠勢力も、遊牧民との関わりが深かった。

 (注13)[139]?~192年。「臨洮(甘粛省)の人。・・・性格は粗暴で腕力にまさり,羌(きよう)族の酋長を懐柔して勢力を養う。霊帝の末年に幷州牧となり,強大な軍隊を率いて時勢を観望する。189年に外戚の何進の宦官誅滅計画に応じて洛陽に進軍すると,献帝を擁立して政権を掌握するとともに暴虐のかぎりをつくした。190年(初平1),袁紹を盟主とする董卓討伐軍が組織されると彼は長安に遷都したが,いよいよ凶暴となり,部下の呂布に殺された。黄巾の乱につづく董卓の暴挙によって漢は事実上滅亡し,群雄割拠時代に入る。」
https://kotobank.jp/word/%E8%91%A3%E5%8D%93-103875
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E5%8D%93 ([]内)
 (注14)?~202年。「汝南(じょなん)汝陽(河南省商水県)の人。袁氏は4代にわたり三公を輩出した名門で、国内には袁氏の恩顧を受けた門生や故吏(こり)があふれていた。霊帝の死後、宦官を排除しようとした外戚の何進(かしん)が、逆に謀殺されると、従弟の袁術とともに宦官2000人を皆殺しにした。董卓が献帝を擁して実権を奪うと、渤海太守に遠ざけられた。山東の豪族を組織し、董卓征伐の盟主となり、董卓を首都洛陽から長安に逃走させた。帝室の一族で幽州牧の劉虞(りゅうぐ)を皇帝にしようとしたが、劉虞に拒否された。袁紹は、河北に割拠していた公孫瓚(こうそんさん)を滅ぼして勢力を拡大し、山東、河北の4州を領し、烏丸(うがん)の精兵を収めて有力な軍閥となった。さらに献帝を迎え入れて力を増した曹操と対抗したが、河南省中牟(ちゅうぼう)県にある黄河の渡し場官渡(かんと)の戦いで大敗した(200<年>)。袁紹の死後、袁尚が継いだが、内紛のため袁氏はほどなく滅亡した。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A2%81%E7%B4%B9-38169

 その勢力を統御しえた曹操が、群雄を切り従えたのも偶然ではない。」(49~50)

⇒董卓は「遊牧民との関わりが深かった」と言えても「遊牧集団の出自」とまでは言えそうもありませんし、曹操
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D
や袁紹に至っては、「遊牧民との関わりが深かった」とさえも言えないでしょう。(太田)

(続く)