太田述正コラム#14062(2024.2.29)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その13)>(2024.5.26公開)

 「・・・その間に江南地方の開発は、かつてないレベルで進展した。
 正統の王朝政権が都を置いたことも、中原から大量の人口が流入したことも、史上未曾有だったからである。・・・
 <但し、>低湿地を大規模に干拓する技術は、この時期にはまだ十分でなかった。
 開発も自ずから微高地や扇状地、山間部へ及ばざるをえない。・・・
 こうした大土地所有に対する制限は、ほぼ有名無実といってよかった。
 それが名族・豪族の勢力基盤をなしている。
 それでも小農から大地主にいたるまで、戸籍に登録のある「編戸」の人々は、田税などの賦課対象になった。
 この点はいわゆる「不輸の権」<(注22)>を保持し、政府権力から大きく離脱していた日・欧の荘園領主と必ずしも同列に論じられない。」(58~60)

 (注22)「インムニテート(ラテン語:Immunitas、ドイツ語:Immunität、英語:Immunity)とは、中世ヨーロッパの荘園制において、国王が領主に与えた政治的特権のことである。日本語では不輸不入権と訳され、不輸とは領主の荘園に対する納税の義務を免除できる特権を、不入とは王国の役人の立入を拒否できる特権を意味する。
 インムニテートという言葉はローマ帝国時代まで遡ることができ、元々ローマ法で公的負担免除の特権を指す。ローマ帝国では貴族の所有する農地は奴隷によって開墾されていた (ラティフンディア)が、3世紀後半に帝国勅令により農地を耕す耕作者は彼らが開墾した土地に代々留まり相続することを義務付けられたため、農地の耕作者が奴隷だったとしても奴隷の所有者は彼らの土地を奪うことはできなかった。この帝国勅令によって土地所有者はその領地内において家父長権(Paterfamilias)を行使し奴隷を含め耕作者を監視せざるを得なくなったが、代わりに彼らは経済力を持つことを許されローマ帝国から助成金や不輸不入権、領主裁判権 (The right of jurisdiction under manorialism)を獲得した。
 中世<欧州>では国王が領主 (教会や諸侯など)にインムニテート特権状を与え、領主が不輸不入権を行使することによって国王役人による徴税や裁判から荘園は保護されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%88
 「西欧<の>・・・フューダリズム(Feudalism)<は、>・・・古ゲルマン人社会の従士制度(軍事的奉仕)と、ローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)に起源を見いだし、これらが結びつき成立したと説明されることが多い。国王が諸侯に領地の保護(防衛)をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様のことを臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度である。この主従関係は騎士道物語などのイメージから誠実で奉仕的なものと考えられがちだが、実際にはお互いの契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であったこともあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。
 さらに「臣下の臣下は臣下でない」という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ「臣下の臣下」は「主君の主君」に対して主従関係を形成しなかったため、複雑な権力構造が形成された。これは中世西欧社会が極めて非中央集権的な社会となる要因となった(封建的無秩序)。
 西欧中世においては、特にその初期のカロリング朝フランク王国の覇権の解体期において北欧からのノルマン人、西アジアと地中海南岸からのイスラーム教徒、中央ユーラシアステップ地帯からのマジャール人やアヴァール人などの外民族のあいつぐ侵入に苦しめられた。そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになった。こうして、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6

⇒「戸籍に登録のある「編戸」の人々は、田税などの賦課対象になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6
というのですが、「田税など」は土地所有者・・血縁・地縁集団(一族郎党)・・の「田など」の「名義的代表者」に課された、というのが私の認識であり、かつ、この「田など」は皇帝やその隷下の諸王によって安堵されたものではなく、従ってまた、「田税など」の納付だけで足り、軍役を課されたわけではない、という認識で私はいます。
 すなわち、統一帝国成立以降の支那史は欧日に見られた封建制的なものとは無縁だった、と。(太田)

(続く)