太田述正コラム#14070(2024.3.4)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その17)>(2024.5.30公開)

 「9世紀の前半、志願して江南の地方官に任じた・・・白楽天<(注29)>こと白居易<(注30)(コラム#13704)>・・・の時期には、微高地への塩湖浸入を防ぐため、堤防・水路などインフラの整備が進展している。

 (注29)「能の曲名。脇能物。神物。作者不明。シテは住吉明神の神霊。唐の白楽天(ワキ)が,日本の知力を試せという勅命を受けて渡来し,筑紫の海上で小舟に乗って釣りをする老人(前ジテ)に出会う。楽天は,老人が自分の名も渡来の目的も知っているのにまず驚く。楽天が目の前の景色を詩に作って見せると,老人がそれを即座に和歌に翻訳したので,ますます驚く。そこで老人は,日本では鶯や蛙まで歌を詠むのだと教える(〈クセ〉)。この漁翁は実は住吉明神の仮の姿で,やがて気高い老体の神姿(後ジテ)を現し,荘厳な舞を見せ(〈真ノ序ノ舞〉),多くの日本の神々とともに神風を起こして,楽天を唐土に吹き戻す(〈中ノリ地〉)。この曲はクセと真ノ序ノ舞が構成の中心で,いちおう脇能の典型によっているが,国の平安をただ祝福するのではなくて,現実に侵入者を追い払うという筋に書かれているのがきわめて異例である。」
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 (注30)「太原(山西省)の人。・・・家は貧しかったが勉学にはげみ,科挙及第ののち803年・・・に任官した。806年・・・厔(ちゆうちつ)県(陝西省)の尉となり,このとき《長恨歌》を作って詩人としての名声を得た。次いで中央政府入りして翰林学士となり,左拾遺に昇進し,当時の天子憲宗に気に入られ,しばしば意見書を呈上,さらに昇進を重ねて太子左賛善大夫に至ったが,815年・・・の上奏文が原因で江州(江西省)の司馬に左遷された。この失意のうちで作られたのが《琵琶行》である。その後,忠州(四川省)の刺史を経て中央に復帰し,821年・・・には中書舎人となった。翌年杭州(浙江省)の刺史に転出すると,西湖に堤防を築いて灌漑事業を興した(白堤という)。ほどなく中央へもどり,刑部侍郎に至り,829年・・・病気を理由にいったん辞職し,次いで太子賓客として洛陽の勤務となった。842年・・・刑部尚書(法務大臣に当たる)で退官し,846年75歳で卒した。唐代の著名な文人のなかでは,官僚として最も高い地位に達した人物といえる。
 青年時代には,詩とは暇つぶしのおもちゃではなく,《詩経》以来の伝統を受け継ぎ,民衆を救い政治の誤りを正すためのものだと主張,〈新楽府(しんがふ)〉その他一群の社会詩を作り,〈諷諭詩〉という部類を立てた。〈新楽府〉とは漢代の歌謡〈楽府〉のあとを継いで,民間の実情を皇帝に知らしめるという,〈楽府〉本来の主旨にもどらんとするものであった。このほかには〈閑適詩〉〈感傷詩〉〈雑律詩〉とよばれる部類立てがあって,そのなかにもすぐれた作品が数多く見られる。〈閑適詩〉とは日常生活の中でわき起こる感興を詠じたものであり,〈感傷詩〉とは文字どおり感傷的な作品で,《長恨歌》《琵琶行》はこれに属する。〈雑律詩〉とはおりおりの感興を律詩の形式で詠じたもので,絶句をも含む。白居易自身は〈諷諭詩〉を最も評価していたが,晩年に向かうにつれてこれから遠ざかり,もっぱら閑雅快適の情を詠じるようになった。その作風は難解さを避け,平易な表現をめざすことを特色としており,しばしば当時の俗語をも作中に取り入れている。」
https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E5%B1%85%E6%98%93-113647#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

⇒「注29」で紹介した能の演目の存在は思考刺激的です。
 日本に唐・・ということは当然その前の隋もだが、・・は潜在敵国であるという認識、や、自分達の日本は人間主義の国だが支那はそうではないという認識、が、確立していたことを示唆しているからです。(太田)

 それが可能な技術水準になってきたのであり、低湿地にも開発の手が伸びはじめた。
 また地形や気候に応じて、早稲と晩稲を使い分ける技術も広がり、生産力の量的拡大はめざましい。
 さらに長江以北の「淮南」でいえば、その海濱での海塩生産が大きく伸長した。・・・
 史書に「唐の中興は江淮の財用による」と述べるとおりなのである。
 それはまた「唐の中興」に限らない。
 10世紀以降の歴史の新たな展開を支えたのも、<この>ような未曾有の「江淮」の開発進展であった。」(79、81)

⇒「「江淮」の開発」をもたらした技術的革新はリニアな革新であり、もはや、支那においては戦国時代ないしその延長線上の時代における乗数的な革新を生み出す力はなくなっていた、というのが私の見方です。(太田)

(続く)