太田述正コラム#14076(2024.3.7)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その20)>(2024.6.2公開)

「乱世に終止符を打った王朝政権は、宋である。
 以後南・北それぞれ150年以上の長命王朝・安定政権だった。
 しかしその道筋をつけたのは、「五代」の掉尾を飾る後周の世宗(せいそう)こと、柴栄<(注34)>(さいえい)である。

 (注34)921~959年。在位:954~959年。「柴栄の実父柴守礼(字は克譲)は、郭威(太祖)の妻柴氏の兄である。柴氏は郭威と同郷の邢州<(けいしゅう)>(現在の河北省邢台市)出身で、郭威が皇帝に即位する前より内助の功を発揮し、その覇業を助けたという。しかし、柴氏は郭威の皇帝即位前に死去し<た>・・・。
 柴栄は幼い頃より叔母の嫁ぎ先である郭威の家で養われ、後晋末に郭威の養子となっていた。郭威が権力を獲得していく戦いの中で柴栄も助力し<た。>・・・
 郭威の一族は後漢の隠帝に殺害されていたこともあり、954年に郭威が没すると、柴栄がその後継者に指名されて後周の2代皇帝に即位することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E6%A0%84
 郭威(かくい。904~954年。在位:951~954年)。「五代後周の初代皇帝。・・・
 郭威は、一兵卒から立身して、劉知遠にその才能を見出され重臣となった。劉知遠が後漢を建国するに際し大功を挙げ、枢密副使にまで昇進している。
 948年、劉知遠が没して劉承祐(隠帝)が即位すると枢密使に昇進する。さらに契丹を撃退するなど多大な軍功があり、人望を集めたという。そのため、その実力を劉承祐に恐れられるようになり、一族を皆殺しにされた上、自身も命を狙われるようになる。このため、軍と共に逆に反乱を起こして劉承祐を殺害し、劉知遠の甥(劉崇の子)の劉贇(順帝湘陰公)を皇帝に立てたが、間もなく殺害して自ら皇帝として即位し、後周を立てた。
 即位してからの郭威は、農村復興や節度使の統制、軍事力の強化など、内治に力を注いだという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E5%A8%81

 かつて内藤湖南はかれを「真の天才」と激賞し、宮崎市定は織田信長に比定した。・・・
 かれは養父にして先帝の郭威から受け継いだ禁軍を最強の軍団に練り上げて、各地の軍閥勢力に勝利を重ねた。・・・
 禁軍は職業軍人だったから、その強大な兵力を維持し、戦果をあげ政情を安定させるには、将兵を養い、働かせるに足る給与を支払わねばならない。
 その給与は貨幣・銅銭で支給した。
 当時の軍団は遊牧民出身者が多く、かれらは通例、商人から物資を入手する習慣だったからであり、貨幣を手にしないと収まらない。・・・
 柴栄の武功は、その財政運営に成功したことをも意味する。
 銅の回収につとめ、集まった銅器・銅像を銭に改鋳した。
 「法難」といわれた著名な仏教弾圧政策も、その一環である。
 銅銭鋳造のため銅を大量に使う諸寺の仏像を破壊したからであ<る。>・・・
 この時特筆すべきは、柴栄の南唐に対する戦勝であった。
 これによって、それまで均衡を保ってきた南北の勢力バランスが、たちまち北方優位に転じたばかりか、中原政権は最大産塩地の淮南地方を獲得し、長江流域の塩供給を制して、莫大な利益をあげ、いよいよ軍事的に優位に立つことができたからである。
 こうして中原政府は、政治的には南方を圧倒して、統一事業をすすめると同時に、経済的にはあらためて江南に対する依存も深めていった。
 こうしたなんぼっく関係は、唐代の後期から構築がはじまり、柴栄の政権が禁軍の強化維持とリンクさせて確立したものが一つの到達点になる。」(89~92)
 
⇒後周の禁軍に遊牧民出身者が多かったということは、その皇帝であったところの、郭威や柴栄もまた、遊牧民出身者であったことを推認させます。
 ちなみに、揚海英は、少数説ながら、この後周にとってかわった宋(北宋)の太祖趙匡胤、太宗趙光義(趙匡義)兄弟も、遊牧民の突厥出身であるとしているところです。(コラム#13866)(太田)

(続く)