太田述正コラム#14080(2024.3.9)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その22)>(2024.6.4公開)

 「また対外的には、契丹に毎年、・・・多額の「歳幣」を贈与せねばならなかったし、国境附近の防衛のため、大規模な軍隊を北辺に常駐される必要が生じている。
 コストはさらに膨大な規模になった。
 これをまかなったのは、農業生産に対する土地税の「両税」<(注36)>と、塩専売など商品流通に対する税収の「課利」を大宗とした財政体制である。

 (注36)「唐中期から明中期まで行われた税制のことである。夏と秋の二回徴税されるのでこの名前がある。均田制・租庸調制に代わって施行された。・・・
 建中元年(780年)、徳宗の宰相楊炎の建議により両税法が施行された。両税法の骨子は以下のようなものである。
1.両税への一本化。
・戸税・地税青苗銭などをこれを全廃する。これには藩鎮の勝手な徴収を防ぐ意味もあった。
2.6月に麦を納める夏税、11月に粟・稲を納める秋税の二回徴収とする。これが両税の名の由来である。
・当時華北では麦の栽培と粉食が一般的になり、麦と粟の二年三毛作が行われていた。
3.戸を対象に課税し、資産の多寡によって税額が変わる。
・それまでの丁男を等質と見なす考えを捨て、戸ごとに財産を計って課税額を決める。
4.量入制出から量出制入への移行。
・まず必要な予算を先に決め、両税以外の歳入を全て計算。予算に足りない分を両税の税額とした。
5.資産計算・納税共に銭が原則。
・当時農村でも銅銭が普及しつつあり、それに対応するもの。ただし現物による折納も認める。
6.主戸・客戸の区別の撤廃。
・主戸・客戸の区別なく土地を所有するならば全てに課税する。逆に佃戸・・他人の土地を耕作して小作料を納める小作人の戸・・などには課税されない。・・・
 銭納を原則としたことで農民に貨幣を持つことを義務付けることになり、商業活動を更に活発にする。だが、その反面において全国の農民が納税用の貨幣を持つために一斉に作物を換金する必要性に迫られて物価の下落や悪徳商人による買い叩きなどが生じた。そこで809年には、例外的措置として一定金額を納めた者については公定価格に基づく物納との折納を容認し、821年にはこれが拡大された。更に五代十国時代下では(貨幣制度が混乱した事もあって)絹帛と貨幣の事実上の2本立てとなり、ついで北宋の1000年には絹帛も正税に加えて、これ以後は銭納原則は事実上放棄されて納税金額を元にして算出される絹帛による物納制へと変わっていった。更に明では積極的な農業重視政策を背景に穀物による納税を基本とした。・・・
 明代中期になると付加税が増えて複雑化したため、一条鞭法が施行されて両税法は廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%A8%8E%E6%B3%95

 この財政体制は大運河の漕運とリンクするよう設計してあった。・・・」(92~93)

⇒「秦〜漢代に行われた課税<である>・・・算賦<(さんぷ)には、>・・・人頭税としての口算 (こうさん) と口銭,財産税としての貲算 (しさん) とがある。口算は・・・戸籍に基づいて,15~56歳の成年男女に対して毎年1算 (120銭) を,商人と奴婢には倍額を課したもので,国家財政に属した。口銭は3~14歳の男女に毎年 23銭を課し (<漢の>元帝の時代に7~14歳に改められた) ,帝室財政に属した。これに対して貲算は民に財産を申告させ,1万銭<(1000銭?)>に対して1算を課したもの。・・・またよう車,船,家畜に対しても貲算が課された。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AE%97%E8%B3%A6-71362
ということと、「注36」を踏まえれば、支那における税制は、マクロ的に見て、春秋戦国時代末とその延長線上の時代における、個人からの銭納、から、それ以降の時代における、戸からの物納、へ、と、退化した、と、言えそうですね。(太田)

(続く)