太田述正コラム#3009(2009.1.2)
<皆さんとディスカッション(続x355)>
<植田信>(http://www.uedam.com/kakoota812.html
 太田氏のコラム#3003に、私が書いたばかりのこの掲示板の話題が出ています。
 気になったところを。
 「(植田さん、戦前の日本が民主主義だったのはファクトであってロマンではありません。植田さんがそんなこと言い出してどうするんですか。)」
 「繰り返しますが、戦前から民主主義だったけど、当時の世界で、最も民主主義による国家ガバナンスが機能していた、数少ない国のうちの一つが日本だった、という認識を普及させることは、優先順位が最も高い課題なのですよ。」
 いや、こういう太田氏の反応を予想していたので、これは緊急の話題ではないと書いたのですが、やはりそうしておきます。
 戦前の日本がデモクラシー社会だなんて言うのは、とんでもないことです。
 と、数年後に始めたいと思います。
 が、今の課題ではないです、私的には。
 とはいえ、戦前の日本も戦後の日本も十分にデモクラシー社会である、という立場も成り立ちます。
 形式に注目すれば、帝国議会が1890年に開催され、以後、日本国から議会制度は消えていません。この点に注目すれば、日本人は明治以来、ずっとデモクラシーを行ってきた、といえます。
 したがって、太田氏が、日本は数少ない民主主義国家だったと海外にプロパガンダしたいというのも、もっともなことです。
 ま、ここは、今は、深入りはしたくありません。
 先が長い問題です。
 つまり、私的には、「不比等・律令理性」問題の核心に迫る問題になります。
 というわけで、この点は、太田氏説に反対ではなく、しかし、だからとって共同戦線は張れない、というところです。
 しかし、考えてみれば、方向は同じでしょう。
 太田氏の主張が、その通りであればいいのにな、という感じです。
 あとは、フレー、フレー、です。
 すべからず日本語に流通している言論の数々をなぎ倒せ、ですよ。
 太田氏の属国論は、もう、テイクオフしました。
 さらに高くへ飛ばしましょう。
<太田>
 私は、立憲制(=自由主義)や議会制について論じているのではなく、民主主義について論じているのです。
 私は、民主主義とは、『国民の多数の意向に基づいて国家政策の基本・・法律と予算・・が決定される』ことであると考えています。
 このような民主主義の定義に照らせば、大正デモクラシー以降の日本は、民選議員によって構成される衆議院の優位が確立していたことから、民主主義的であったと言わざるをえないと思うのですが、反論があれば、どなたからのものであれ、歓迎します。
 なお、私が戦前の日本について、民主主義的と「的」をつけるのは、『』内が、戦前のいかなる公式文書にも明記されていないからであり、かつ、戦前の場合「国民」に「女性」が含まれていなかったからです。
<Chase>(http://blog.zaq.ne.jp/fifa/
 コラム#3005(2008.12.31)で、小室直樹氏のソ連崩壊の予言を揶揄して、“小室さんは、国際政治学者でもソ連専門家でもありませんよ。当たるも八卦・・・」とのたまった。
 太田氏の言は、氏の主題目ではないので、モノローグとして反論しておく。小室氏以外にもソビエトの崩壊を唱えた人は、ピンからキリまで数えれば無数(ほど ではないが)にいる(典拠はググれば沢山)。
 小室氏の特徴は、内包する矛盾を社会学の手法でもって余すことなく示したことにその意義がある。
 小室直樹氏の本業は社会学であり、小室氏の予言「ソビエト帝国の崩壊」は、橋爪大三郎氏等の解説によれば、ヴェーバーを源流としてタルコットパーソンズで 完成した構造機能分析理論によるソビエト帝国の解剖書であった。
 タルコットパーソンズはもはやobsoleteであるが、ケインズがそうであったように、 活躍当時の学問の切れ味でアメリカで活躍した(橋爪大三郎氏等の著書『現代の預言者・小室直樹の学問と思想』
http://www.interq.or.jp/sun/atsun/komuro/etceteras/1992101.htmlによる)。
 氏の構造機能分析によると、ソビエト帝国の目的(=機能)としてあるべきだったマルクス主義は変貌(→スターリン主義)、また社会主義の優位性は崩壊(→ 内部での資本主義の隆盛)等の機能不全で構造(帝国全体)の遷移(ソビエト帝国の崩壊)を引き起こすという演繹的手法でもって世に問うた訳である。
 という ことで、国際政治学者、もしくはソ連専門家としてソビエト帝国の崩壊を予言したわけではない。
 当時の社会学の最先端理論であった構造機能分析という方法論 をソビエトにあてはめて、同国の帰結を予測したところが凄い訳である(詳しくは橋爪氏の著書を参照)。
 ちなみに、実際に起こったソビエトの崩壊のプロセスそのものは、(何度も<私の>ブログで言及してきたが)小室氏は予言していない。単に崩壊の可能性の高さを警鐘?したに過ぎなかった。
 トリガーとなったのはあくまでゴルバチョフの弛緩政治であり、それにレーガンのプレッシャーが加わって、結局専制の崩壊に繋がっ た。
 小室氏のお得意芸である急性アノミー(ミコヤンのスターリン批判演説)によるモラルハザードがどの程度であったかは不明である。
 余計なことで紙幅を使ってしまった。
 ところで、太田氏が、同記事の中で引用していたヴェーバーとシュンペーターの論争が面白かったので、引用箇所のみ英語の勉強で訳出しておきたい。(なお、私のレベルは英検準一級と二級の間くらいなので、訳を真に受けないでください。)
http://www.zetterberg.org/Books/b93e_Soc/b93eCh2.htmより
 「ヴェーバーは、新しくできたソ連に関する論争において、裕福な国だけが社会主義を導入できるというマルクスの考え方に同意した。以下は、1919年にウィーンで行われた、ヴェーバーの友人であり、著名な経済学者シュンペーターとの会話であり、ふたりの意見、気質、道徳観が伺える。
 シュンペーターは、ロシア革命は喜ばしいことであると言明した。社会主義は、もはや紙の上の存在ではなくなったのであり、その実行可能性が証明されなければならなくなったというわけだ。ヴェーバーは、 大変興奮してこう答えた。ロシアにおける現在の状況はほとんど犯罪だ。このまま進めば未曽有の悲劇がもたらされ、その挙げ句、壊滅的な破局を迎えることになるだろう。「そうかもしれないね」とシュンペーターは答えた。「でも何と素晴らしい実験の場であることか」。ヴェーバーはそれに対して、「屍が充満した実験室になるぞ」と激高した。シュンペーターは、 「どんな解剖室についてだって、同じことが言えるさ」と反論した。
 二人にこの議論を止めさせようとするあらゆる試みは失敗した。ヴェーバーは、より激しく声を荒げて行った。シュンペーターは、より嘲笑的かつ沈黙がちになった。他の客たちは、このやりとりに興味深い面持ちで耳を傾けていた。やがてヴェーバーは飛び上り、「もうこんな議論には耐えられない」と叫んで出て行った。残されたシュンペーターは、「なんでこんな喫茶店で彼は激高するんだい」と苦笑しながら言った。」
<太田>
 邦訳、まことにありがとうございました。(少し手を入れさせていただきました。あしからず。)
 引用された小室氏の本は私も出版当時に読んでいますが、60年以上遅れてヴェーバーと結論的に同じことを言っているだけだ、という印象を持ったことを記憶しています。
 マルクス・レーニン主義的社会主義が必然的に崩壊することなど、最初から分かりきっていたけれど、問題は崩壊の時期だったわけで、それはヴェーバーにも小室氏にも分からなかったということではないでしょうか。
 崩壊の前兆をつかみ、崩壊の時期を予想するのは、国際政治学者やソ連学者の役割だったはずですが、遺憾ながら私の知る限り、予想できた人はいませんでした。
<ケンスケ2>
 尊皇攘夷運動が盛り上がっていたとき、少しでも知識のある人は攘夷が可能だとは誰も考えては居ませんでした。
 しかしそれ以上に倒幕が必要だった。
 そして倒幕の為に攘夷派と手を組んだのです。
 今も同じでしょうね。
 いまも非武装中立無抵抗の平和主義が可能だと考えている者は誰もいないでしょう。
 むしろそれこそ、戦争を呼び起こす最も危険な道であることも知っている。
 小沢一郎がそんなことを知らないはずがありません。
 しかしそれ以上に今は倒幕が必要なのです。
 大蔵省が垂れ流す補助金にしがみつく、既得権益の解体が。
 全ての源泉は、皆さんの支払う源泉徴収の所得税だというのに。
 皆さんの同意を得ることもなく、バラマキ続けられているのですから。
 自治労や日教組も、その同じ税収から甘い汁を吸い続けていることに変わりがないとしても。
 公明の定額給付金の決めた結果は、公明票が少しだけ増えて、自民票がその何倍も激減したでしょうね。
 与党全体としては、大幅な減少ですが、今の公明党にはそんなことを顧みる気持ちはありません。
 総裁選後にいかにキャスティングボードを握り続けるかと言うことだけを考えています。
 何が悲しくてこの局面で自民党の為に身を切ったりすると思えないわけで。
 太田さんの論説の通り、むしろ今の局面では、日本の核武装こそが、現実の戦争を遠ざける最も安価で合理的な道だろうと思います。
 核武装すれば、中国や台湾が、尖閣諸島に手を伸ばす誘惑に駆られることもなくなるでしょう。
 自衛隊が、超法規措置として武力発動に踏み切るようなことも防げる。
 しかし今の国民世論を、そこまで変えていくことは不可能です。
 やはり今は現代の尊皇攘夷運動たる、非武装中立の平和主義勢力と手を結ぶことが必要なのです。
<太田>
 「太田さんの論説の通り、むしろ今の局面では、日本の核武装こそが、現実の戦争を遠ざける最も安価で合理的な道だろうと思います。 」なる論説は、私の論説ではない、という点を除けば、仰ることに同感です。
<ΛΛΛ>(http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1196337365/l50x
 太田さんからコメントをいただいちゃった(コラム#3007)。
 太田さんは日本人自らが属国主義者の政治家を選んできたとおっしゃるけど、日本を独立国家にすることを公約して立候補する人がいないので、国民に選択の余地がなかったようにも思えるのだけど。
 それにしても、親戚が自民党の衆議院議員と付き合っていて、話してる内容をよく聞くんだけど本当にお金の話しかない。元某大臣なんてエライ年して金を設けることばかり考えてるらしい。
 その親戚は金持ちなんだけど、こういう人達こそが日本を属国のままでいて欲しいと願い、自民党を支えてきた人達のように思う。
 太田さんの言うように貧乏人が金持ちに対する妬みだけで政治家を選ぶのは最悪だと思うけど、今のノブレス・オブリージュを忘れた金持ち達も自民党と同罪だと思う。
 今年こそ、利権政党が下野し、日本が独立国家としての第一歩を踏み出し、日本人が良い意味での日本人らしさを取り戻し、真っ当な人達が生活に困らなくなりますように。
 太田さんにも良い年でありますよに。
<太田>
 「太田さんの言うように貧乏人が金持ちに対する妬みだけで政治家を選ぶのは最悪だと思う」についても、私、言ったことないのではないかと思いますが、全体としておっしゃっていることにはおおむね同感です。
<天気輪>
 新年あけましておめでとうございます
 太田様こんにちは。・・・
 現在コラム#160まで読了したところです。
 #159の「民主党シンンクタンク機関紙に論考が掲載されたがその後一年以上経っても民主党関係者やその他からただ一つの反響もなかった」ことに衝撃を受けました。
 また#160で(2003年9月の段階で)、「4  今後の日本の防衛力のあり方」として「ア 諜報機関の設置」がすべての前提と書かれています。
 衛星よりこちらに先ずカネを投じるべきとも書かれています。
 こうした根本的な提言すら広く議論されることがないのですから、拉致問題が一向に解決しないわけだな、と思いました。
 少なくとも、こうした機関が無いがために北朝鮮の跳梁を許しているわけですし。
 そもそも政治家自身を外国の工作から護るためにも必要だと思うのですが、日本の政治家は既に後ろ暗いところがありすぎて設置に消極的なのでしょうか。
 そんな自らを縛りかねない余計なものを作るより、属国なら利権を漁らにゃ損損…とでも言うのでしょうか。
 ここまで目の前につきつけられて反響が無いというのは、もはや日本人に受容体が尽きたのだろうかと、勝手に新年早々落ち込みました。
 まともな人間は発狂するか思考せず私利私欲を追及する以外ない、というのは確かに言い過ぎではありませんね。
 本年もどうぞよろしくご指導ください。
<ueyama>
 昨年は大変お世話になりました。
 今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 今年はどんな年になりますかね。
 いわゆる激動の時代と呼ばれるような時代も一度は死ぬまでに経験してみたいですね。
 あんまり年取ってからじゃしんどそうだけど。
 今回のイスラエル VS ハマス シリーズ(未公開)、勉強になりました。
 中東の対立構造自体が解消される日はいつくるんでしょうね。
 果たしてくるのか、のほうが現実に即してるのかもしれませんが。
 さて、以下は昨年中に掲示板に投稿しようと思っていて、さっぱりまとめる時間がとれず、太田コラムの話題としても賞味期限が切れてしまった感のある天皇についてです。
 ちょうどこのようなことを考えていた頃に話題になったので書き始めたのですが(近年の雅子さんの話題を念頭に置いています)、やっぱり文章を書くのってなかなか難しいですね。

□日本は立憲主義だ。仮に現在成文化されている日本国憲法に憲法的な規範性がないにせよである。イギリスが不文憲法であるが故に、憲法的な規範性を成文法(人身保護法、王位継承法、議会法等)として規定し修正を続けているのに対し、日本は成文化されている(上、その成文憲法を改正することが事実上不可能である)が故に、その解釈の変更を国民的合意を元に行ってきたというだけのことだ。
イギリスの憲法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%86%B2%E6%B3%95
□それなら、(憲法を憲法たらしめている主体であるところの)我々は天皇、あるいは天皇とその皇族たち(以下、天皇家)の自由についてどう考えているのかを明確にすべきだ。天皇家が(人により程度の差はあれど)小さな頃からあらゆる自由を制限されて生きていることも、その自由を制限しているのは日本国憲法であることだって、どんなに鈍感な人でも気づくはずだからだ。もちろん憲法自体は基本的に政府に対するものであり天皇家(の自由)が憲法に支配されることはないけれど、だからといってそのような個人の自由を縛ってしまうような条文が憲法(とそれに付随する法)に明記されていることに対して、無関心でいてよいわけがない。
日本国憲法 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html
皇室典範 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO003.html
□天皇家が「もう嫌だ」というのを止める権利は誰にも存在しないことから、嫌なら嫌と本人たちが言えばいいだけだという立場もあるだろうけど、彼らは帝王学やらなんやかんやで生まれたときから権力に絡め取られていることを忘れてはいけない。そう言い出さないように、慎重に教育されているととらえるべきではないか。
帝王学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E5%AD%A6
□彼らの生活は、少なくとも自分が天皇家の一員だったらと考えると絶対に耐えられない生活のように思えるし、その生活をお願いするのが「国民の総意」であり、その天皇は「日本/国民統合の象徴」であるというのは、ちょっと賛成しかねます。
□立派な権威として振る舞うというのは「個人の資質と努力のたまもの」(#1214で紹介されている米タイムの記事)だし、「使命感を持ち、自己研鑽を怠らず、なおかつ「適切」な歴史観を持った天皇が、「ほぼ」歴代続いたからこそ」やっとのことで「維持されてきた」(#0215)天皇制なわけで、つまるところ個人の資質に依拠した国家の制度である天皇制は廃止し、宗教上の権威に(なりたければ)なっていただくという方向性が、私の精神衛生上よさそうです。
<太田>
 皆さん、新年の挨拶を兼ねたコメントをいただき、ありがとうございます。
 
 さて、記事です。
 スポーツと学業を両立させている、日本の部活の素晴らしさを仰ぎ見ているかのような特集が、朝鮮日報で組まれています。
http://www.chosunonline.com/article/20090101000026
http://www.chosunonline.com/article/20090101000027
http://www.chosunonline.com/article/20090101000028
http://www.chosunonline.com/article/20090101000029
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太田述正コラム#3010(2009.1.2)
<イスラエルのガザ攻撃(続々)(その1)>
→非公開