太田述正コラム#14734(2025.1.30)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その17)>(2025.4.27公開)

 「・・・<1582年の山崎の合戦の後に行われた>清洲会議は織田政権の解体を世に宣言したものだった・・・。
 秀吉が京都、山城をとった意義は大きい。
 本圀寺<(注35)>に入ると、公家たちの本圀寺詣が続いた。・・・

 (注35)「嘉暦3年(1328年)に、後醍醐天皇の勅願所となっている。
 本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)3月で、四祖日静上人の時である。日静は室町幕府初代将軍足利尊氏の母・上杉清子の弟で、尊氏の叔父であった。そのため、幕府からの支援もあり、日静は光明天皇より寺地を賜ると六条堀川に寺基を移転させた。また、天皇から「正嫡付法」の綸旨も受けている。・・・以降も寺は足利将軍家の庇護を受けたほか、応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている。・・・
 文明14年(1482年)に、後土御門天皇の勅諚により「法華総本寺」の認証を受けている。
 天文5年(1536年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼き討ちされて焼失し、堺にある末寺の成就寺に避難した。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は天文16年(1547年)に六条堀川の旧地に再建された。
 永禄11年(1568年)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌永禄12年(1569年)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件・本圀寺の変が発生した。本国寺はなんとか損傷を免れたものの、信長は本国寺の一部の建物を解体して二条御所(二条城)建築に用いることを決める。本国寺の一部の建物は取り壊され、それぞれの建築物は二条御所に運ばれて再組み立てされたという。さらには屏風や絵画などの本国寺の貴重な什器類までもが運び去られた。
 天正13年(1585年)、豊臣秀吉により山城国菱川村(現・京都市伏見区)に朱印地177石が与えられた。・・・
 水戸藩主徳川光圀が当寺にて生母久昌院の追善供養を行うと、貞享2年(1685年)に光圀は自らの名から一字を本国寺に与え、本国寺は本圀寺と改称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA

⇒天皇家と足利氏との縁の強過ぎる本圀寺・・当時は本国寺・・、に対して、信長は、本圀寺の変を奇貨として、距離を置いたのに対し、秀吉は、あえてよりを戻すことによって、私見では、信長流日蓮主義を否定し秀吉流日蓮主義宣言をしたのだと思うのです。(太田)

 秀吉は10月15日、京都の大徳寺で信長の葬儀を盛大に執り行った。・・・
 朝廷は信長に従一位太政大臣を追贈したので、信長の号は「摠見院殿贈大相国一品泰巌大居士」とされた。
 秀吉は大徳寺に位牌所として摠見院を建立し、銭一万貫などを寄進した。」(135)

⇒言うまでもなく、「摠見」は、安土城内に信長によって建立された摠見寺からとられたものでしょう。
 (なお、「初めは伊勢国大島村(現在の三重県川越町)に西明寺という講寺であった<ところ、>鎌倉時代末期の1332年(元弘2年/正慶元年)、虎關師錬が景陽山神賛寺と改め後醍醐天皇の勅により官寺とな<り、>後に伊勢国安國寺となっ<てい>た<ものの、>天正の頃、廃寺になりかかっていたのを、織田信雄が父である織田信長の菩提を弔うために清洲北市場(現在の清須市一場)に移し、安土城下の摠見寺にならい總見寺と改めた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%BD%E8%A6%8B%E5%AF%BA
もう一つの摠見寺があります。)
 これも重要です。
 事実上日蓮宗信徒であった信長が、どうして臨済宗の寺だけを安土城内に建立したのかについて、同宗が武士の毀損された縄文性を回復する方法論を確立した宗派だからだ、的なことを、秀吉は自覚していたこともあって、信長の葬儀を大徳寺で行った上、法号に「摠見」を入れ、信長の位牌所として摠見院を建立したのである、と、私は思うのです。(太田)

(続く)