太田述正コラム#14736(2025.1.31)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その18)>(2025.4.28公開)
「・・・天正11<(1583)>年、秀吉が、近江でも京都でもなく、大坂に築城を開始したのは、西国の掌握とともに、流通の大動脈である瀬戸内海の掌握、さらにその先にある貿易の掌握(あるいは貿易への参入)を強く意図したからである。
それは信長の志向したところでもあって、天正10<(1582年)>年5月に信長は四国と中国地方の両方への同時出兵を準備していた。・・・
<そして、>九州平定により、貿易拠点の博多・長崎を直轄領とし、海賊停止令などによって村上水軍その他の流通路支配を断ち切った。
ここに大坂・堺を一方の極とする西国の水上の物流を掌握することになった。
それはすでに朝鮮出兵をも念頭においたものであったが、それに先行して、秀吉はまず貿易に積極的に参入した。
⇒「朝鮮出兵をも念頭におい」て「貿易に積極的に参入した」ことが、秀吉が信長が予定していたことをそのまま行ったものであることを池上も認めているわけです。(太田)
九州平定の翌16(1588)年、秀吉は長崎の教会領を没収して長崎を直轄領とし、佐賀の鍋島直茂を代官に任じて、黒船(ポルトガル船)がひきつづき入港するよう取りはからわせた。
ついで長崎惣中に対し地子銭<(注36)>を免除して、町の繁栄をはかった。
(注36)地子(じし/ちし)銭。「地子・・・とは、日本の古代・中世から近世にかけて、領主が田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などへ賦課した地代を指す。・・・中世の中期(鎌倉時代中期・後期)ごろから、商品流通の活発化とそれに伴う貨幣経済の進展が次第に顕著となっていくと、地子を貨幣で納入する事例が増えていった。これを地子銭という。地子銭の納入は決して多くはなく、一部の都市(京)などにとどまっていたが、中世末期の戦国時代ごろになると、農村部でも銭貨による地子納入の事例が見られるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
そして小西立佐<(注37)>に銀2000貫をもたせて長崎に派遣し、ポルトガル船の生糸の一括買いつけを行わせた。
(注37)りゅうさ。隆佐とも。?~1592年。「小西行長の父親。・・・堺の商人で薬屋(薬種問屋)を生業にしたというのが定説。・・・天文20年(1551年)、豪商日比屋了珪の仲介で、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの京都滞在中の世話役となったのが初めで、永禄8年(1565年)、ルイス・フロイスを師事して、ガスパル・ヴィレラ神父によって洗礼を受け、キリシタンとなった。・・・また妻のマグダレナ(マグダレーナ)と長男・如清はこれより前の永禄2年に、ヴィレラが最初に豊後から堺に来た際に洗礼を受けていた。同年、正親町天皇が京都から宣教師を追放するよう命令し、将軍足利義輝を殺した松永久秀ら三好党がこれに従って追放した時、隆佐はフロイスやヴィレラを三箇城(現大阪府大東市)の三箇頼照の下まで避難させた3人の日本人の1人であった。永禄11年(1568年)にフロイスが京都に戻り、織田信長と面会するために安土を訪問した際にも同行した。・・・天正13年(1585年)頃から秀吉に仕え、播州室津や小豆島、河内国・和泉国における豊臣氏の蔵入地の代官に任命された。隆佐の妻の洗礼名はマグダレーナ(マグダレナ)で、・・・彼女も北政所に仕えて、侍女となった。天正15年(1587年)の九州征伐では兵糧の補給役を命じられ、堺の奉行職に任命された。しかし同年に発せられたバテレン追放令を受けて、隆佐は堺の奉行を辞し、マグダレーナも城を去った。宣教師追放後、隆佐<ら>は京都と大阪の信者の師父となり、自宅を信者に開放して教会とし、堺にはライ病患者の病院を建てた。秀吉のキリスト教政策はこの後で一時的に軟化し、(フィリピン総督との交渉決裂により)1590年代後半に再び厳しくなるが、それでも小西氏への信頼は揺るがなかった。・・・文禄元年(1592年)、朝鮮出兵が始まると、隆佐は財務の職を与えられて肥前名護屋城に入るが、まもなく発病。・・・海路で堺経由で京都に戻り、そのまま死去した。遺言により金2千両を京都の教会に遺贈した。慶長3年(1598年)の秀吉の死後、マグダレーナは再び北政所に召されて侍女となったが、関ヶ原の戦いの敗報と行長の死を知り、悲痛の余りほどなく亡くなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E9%9A%86%E4%BD%90
これについてポルトガル商人は嫌悪の情をもったが、立佐はキリシタンの立場を利用して商談を成立させた。
また、ポルトガル船が薩摩の港に入港した時、島津義弘がこれを秀吉に報告すると、秀吉は、石田三成を奉行として銀2万枚をもたせて派遣し生糸を買いあげるので、それまでは売買をしてはならない、奉行が買いあげたあとに余った分は商人に買わせてよいと指示した。
さらに、一年に5度、10度とポルトガル船が来航しても、ことごとく召しあげるので、毎年どこの港にでも自由に来るよう伝えよ、と命じている。
秀吉は直轄領長崎だけでなく、どこの大名領でも来航した船の生糸を買い占める策に出たことがわかる。
そしてさかんに来航を促した。」(257~258)
⇒秀吉によるところの、「貿易<への>積極的・・・参入」、が、日蓮主義対外戦争を遂行するための資金稼ぎのためであったこと、を改めて強調しておきたいと思います。(太田)
(続く)