太田述正コラム#14738(2025.2.1)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その19)>(2025.4.29公開)
「・・・秀吉の行った、貿易船の品物をすべて買い上げる方式は、同時に相手方にも利益を保証することであった。
⇒池上が、秀吉の値決めの手順、方法を示していないので、この一行が正しいかどうか判断のしようがありません。(太田)
それは東アジア世界の中心にあった中国がとってきた朝貢貿易体制のやり方・考え方を真似たものである。
⇒いずれにせよ、「朝貢は、・・・王化思想を基調として周辺諸国の夷狄たちが、「<支那>の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えるという形式である。朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜する。経済的に見ると、朝貢は受ける側にとって非常に不利な貿易形態である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2
ところ、秀吉の、生糸だけを対象として、それを優先的に銀で買い上げる「貿易」の一体どこが、「朝貢貿易体制のやり方・考え方を真似たもの」なのでしょうか。
私には全く理解できません。(太田)
秀吉が外交権を行使して高山国(台湾)やイスパニア領マニラ、ポルトガル領ゴアに[服属と<(注38)>]入貢を求めたのは、明にかわって日本が核となる朝貢貿易体制をつくりあげようとの構想をもっていたからであろう。」(259)
⇒「天正15年(1587年)に天台宗の元僧侶であった施薬院全宗<(コラム#12235)>の讒言を受けて豊臣秀吉が発したバテレン追放令はキリスト教の布教の禁止のみであり、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであった。これにより“黙認”という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。また、この時に禁止されたのは布教活動であり、キリスト教の信仰は禁止されなかったため、各地のキリシタンも公に迫害されたり、その信仰を制限されたりすることはなかった。
バテレン追放令を命じた当の秀吉は、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた。・・・
1591年、原田孫七郎<(コラム#12245、14192)>はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と降伏を勧告する秀吉からの国書を1592年5月31日にフィリピン総督に渡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
という流れであり、フィリピン側がこの秀吉の国書を黙殺したというのに、秀吉は軍事力による威嚇すら行わなず、かつ、生糸貿易も止めなかったのですから、バテレン追放令の時と同じく、単に、秀吉が予定していた翌年の朝鮮出兵下においても、秀吉にとって軍資金稼ぎであるところの、日本との貿易、を相手側に維持させることが狙いのブラフ以上でも以下でもなかったのではないでしょうか。
フィリピン側も、そのあたりのことは相当程度分かっていたと見ます。(太田)
(続く)