太田述正コラム#2864(2008.10.21)
<フランスの成立(その1)>(2009.4.21公開)
1 始めに
 フランスについては、これまで随分とりあげてきたところです。
 フランス論としては、コラム#1664、2055・2057のほか、コラム#1839も参照していただきたいですが、今回は、オックスフォード大学歴史学教授のロバート・ギルディア(Robert Gildea)が上梓した’Children of the Revolution: The French, 1799-1914′ のさわりを、この本の書評をもとにご紹介しましょう。
 (以下、
http://features.csmonitor.com/books/2008/10/20/children-of-the-revolution-the-french-1799-1914/
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article4396883.ece
http://www.spectator.co.uk/print/the-magazine/books/866181/a-country-of-ruins.thtml
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/children-of-the-revolution-by-robert-gildea-876221.html
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?view=DETAILS&grid=&xml=/arts/2008/07/27/bogil127.xml
http://www.economist.com/displayStory.cfm?Story_ID=11837603
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2008/07/26/bogil126.xml
(いずれも10月21日アクセス)による。)
2 フランスの成立
 (1)概説
 ・・・<1989年>7月14日の革命は、不幸なルイ16世の下での立憲君主制の生誕を見た。1793年にはこの国王は処刑され、新しく急進的なジャコバン体制の下での第一共和制は恐怖政治(Great Terror。1793~94年)へと突入した。
 これに対し、穏健な共和主義者達が反撃に出て、1974~75年の間、新しい憲法と二院制議会の下で新しい行政府(執政政府(Directoire))を樹立した。
 それから、1799年にはボナパルト(Bonaparte)将軍が、近代における最初のクーデタを行い、彼自身を第一執政(Consul)と宣言した。1804年までには彼はナポレオン皇帝となり、10年の間、欧州のあらゆることは彼と彼の軍隊を中心に展開した。
 彼が1814年に敗れた後、フランスはもう一人のブルボン国王の下で立憲君主制に再転換した。
 しかし、ブルボン家の国王達はダメだということになって、フランスは1830年にオルレアン家の国王に変わった。しかし、驚くべきことではないが、これも何ら改善にはならず、1848年に第二共和制が宣言された。
 新しく大統領になったルイ(Louis)・ボナパルトは、欧州史において初めて男子普通選挙で選ばれた元首なのだが、1850年に自らクーデタを敢行し、2年後に、彼の、より有名な叔父の足跡をたどって皇帝となった。
 フランスがプロイセンとの戦いに敗れた1870年、パリは短期間、マルクスによって最初のプロレタリア独裁とみなされたところの、コミューンによって統治された。穏健な共和主義者達はすぐさま反撃を行い、コミューンを<フランス革命後の>恐怖政治もどきの血生臭さで粉砕し、共和制を再樹立した。
 こうしてフランスはようやく平穏になった。20年経たないうちに新しい共和主義的統治エリートが出現し、この体制に対するさしたる競争相手はいなくなった。
 懐古的な王党派(royalists)は、次第に縮小していったボナパルト主義者とともに、政治的民話の一部となり、第三共和制は退屈なほどブルジョワ的でちょっぴり腐敗し、かつ絶え間なき短期間の政府(1870年から1940年の間に108)にもかかわらず驚くほど安定した形で推移した。・・・
 フランス革命は新しい秩序を約束した。自由、平等、博愛、特権の廃止と能力に基づくキャリアの実現、報道の自由、市民権(ただし男だけのための)、そして女性への、両性の合意に基づく離婚を含む、新しい社会的選択肢の提供。
 しかし、「革命的同志愛は内ゲバへと堕落」し、これがフランスを何世代にもわたってかきまわすこととなった。
 一方の人々は、社会的階統制とローマカトリック教会の至上性を含むところの、旧体制への復帰を希った。もう一方の人々は、革命の理想を教育、公的祭典、軍隊において推進しようとした。これら全ては共和制の市民を創出するための道であると考えられたからだ。1世紀以上にわたって、この二つの側は妥協しようとしなかった。
 各世代は過去を違った風に見た。
 革命後に最初に生まれた世代は「戦いの太鼓」に鼓舞されて人となった。・・・
 <その次の世代は、>1815年のナポレオンの<最終的な>敗北の後、子供達が栄光について語っても、大志について語っても、希望、愛、力、生について語っても、一様に「僧侶になったらどうだ」と答えるような人々だった。
 1830年代前後に生まれたその次の世代は、普仏戦争の敗北とパリコミューンによって深く影響された。彼らは建設者となり、夢想家にはならなかった。
 そして、第四の世代にとって、決定的だったのはドレフュス事件(1897~1909年)だった。これはユダヤ系の陸軍士官が大逆罪の濡れ衣を着せられ、最終的には無罪放免になった事件だが、その結果陸軍の評判は地に墜ちた。このスキャンダルは、共和主義者と反共和主義者の間の戦いを再燃させたが、第五世代における国家的統一と和解への願望に再び火をともした。
 フランスがまとまるに至る和解の過程には、国家の象徴兼救済者としてのジャンヌダルクの再発見と普及宣伝から1912年のミシュラン・タイヤ製造会社によるフランス全国の道路に標識をつけて欲しいとのフランス政府への請願に至るまで、様々な大きな物語が援用された。後者の結果、旅行ブームが起こって諸地域とパリとの関係はより密接になった。1890年代に自転車の価格が500から100フランへと安くなると、このスポーツは流行し、1903年にアンリ・デグランジュ(Henri Desgranges)がツール・ド・フランスを始めると、これは国家的統一のもう一つの象徴となった。
 フランスが1914年に再びドイツと相まみえる時までには、フランスは、1870年以来着実に形成されてきた国家意識によって浮揚され、再び自らを誇りに思い自らについて自信を持つ国になっていた。そして、第五世代は、第一次世界大戦の戦場に自分たちの150万人の屍を晒すことでこのことを証明した。
(続く)