太田述正コラム#2866(2008.10.22)
<フランスの成立(その2)>(2009.4.22公開)
 (2)トピックス
  ア フランス的なるもの
 我々がフランス的なものと思い込んでいるうちの多くは、19世紀の産物なのだ。これは都市の光景(geography)についてもあてはまる。<パリの>第9橋(Pont Neuf)の傍らのシテ島(Ile de la Cite)は現在ではかなり広々としている。しかしオスマン(Haussmann)男爵がパリを「解体的に再建する(disembowel)」までは、この場所は貧者と犯罪者が住む混雑した狭い街並だった。教育と軍役が効果を発揮するようになるまでは、大勢のフランスの人々はフランス語すらしゃべれなかった。・・・
  イ 第一次世界大戦観
 <第一次世界大戦の>マルヌ(Marne)の戦いにおいて、作家のシャルル・ペギー(Charles Peguy)が戦死する<のだが、>目撃者は、「機関銃弾をものともせず、自分の詩の中で名誉なことと歌い上げていた戦死を招こうとするかのように彼は自ら立ち上がった」と語っている。ロマン主義的ナショナリストのこの「殉教」は、<フランスの成立という>象徴的な結論を導き出すのにふさわしいように見えた。なぜならペギーは、共和主義者で、ドレフュス擁護派で、社会主義者であると同時に、カトリック教徒で古のフランスの諸価値に愛着を抱いていた人物だったからだ。・・・
 <こういうわけで、>英国人は、ビクトリア女王時代人を、第一次世界大戦は偽善の産物であると見たリットン・ストレイチー(Lytton Strachey)の目を通して振り返るけれど、フランス人は違う。
 バルザック的皮肉屋であるフランソワ・ミッテラン(Francois Mitterrand)までもがそうだが、誰一人ペギーを嗤う者はいない。(1890年に生まれた)シャルル・ドゴール(Charles de Gaulle)は他の誰よりもフランスを20世紀末の輝かしい近代性へとフランスを引きずって行った人物だが、彼の魅力は彼が余りにも明白に19世紀末の人間であったという事実に部分的に根ざしていた。ドゴール自身が言っていたように、彼は「石油ランプと帆船」の時代を懐かしみ続けたのだ。・・・
  ウ 中央集権化
 <1815年の>ウォータールー<でのナポレオンの敗北>以降のフランス人の間の亀裂は、王党派と共和主義者ないし右派と左派との間だけでなく、中央集権論者(centraliser)と地方分権論者(localists)との間にも存在した。・・・
 今日のフランスの行政府は効率性の代名詞のようになっているが、これは法の集大成とともに最も後世に影響を残したナポレオンの遺産だ。
 <これに関連して銘記すべきことだが、>フランス革命のもう一つの嫡子は反僧侶主義(anticlericalism)の飽くことなき息吹なのだ。1816年以降、宗教の復活が見られたがそれは、どちらかと言えば都会ではなく農村地帯においてだった。そこでは、僧侶達の多数は1790年の僧侶民事基本法(Civil Constitution of the Clergy)への宣誓を拒んだものだ。・・・
  エ 女性解放への遅れ
 <旧体制下においては、>フランスの農村地帯では、家族としての一体感を維持するためには、両性の厳格な役割分担と多大なる肉体労働が求められた。だから女性に求婚にあたっては、指関節が折れるくらい力を入れて手を握ったりもした。これは、これは相手の膂力を推し量るためだった。美しさなどというものは、むしろマイナスの資格だったのだ。
 <フランス革命では>女性解放は死産に終わった。当初の革命の疾風の中で両性の合意による離婚が導入され、性格の不一致(incompatibility)を理由に女性に離婚訴訟を提起する権利が与えられた。家産についても男性同様、女性にも管理する権利が認められた。そして、1793年の法律では何と相続の観点からはもはや庶子は存在しないとさえ謳われた。しかし、ナポレオンはフェミニズムを蕾の内に摘み取ってしまった。1804年の民法典は、「夫は妻を保護する義務があり、妻は夫に服従する義務がある」と規定した。1816年では離婚は非合法化され、1884年になるまで再び合法化されることはなかった。ナポレオンは、スタール夫人(Madame de Stael)の小説に出てくる独立志向のヒロイン達が大嫌いだったため、スタール夫人をパリから追放した。ブルジョワ階級と上流階級の女性達は彼女らの大志を「良い」結婚へと矮小化し続けた。また、繊維関係の商売や小さい家族企業に雇用される労働者階級の女性は、結婚のことなどロクに考えもしなかった。政治的には女性なんて無に等しかったし、最後の最後まで、ドーバー海峡の向こう側の戦闘的な女性達に比べれば、フランス人女性の女性選挙権獲得に向けての努力の程度なんて、まるで比較にならなかった。
 この間、女性に教育する機会を提供していたのはローマ教会だけだったことも女性にとって不幸だった。
  オ 反ユダヤ主義
 1986年にジャーナリストのエドゥアール・ドラモン(Edouard Drumont)は『ユダヤ的フランス(La France Juive)』という本を出版した。その中で彼は、当時の世界におけるあらゆる悪に関しユダヤ人を非難した。この本はすぐにベストセラーになり、フランス文化に反ユダヤ主義を根付かせた。
  カ フランス至上主義
 イポリツ・テーヌ(Hippolyte Taine)は1864年にイタリアを旅行した時、イタリアは「未開の(backward)フランス」だと宣い、そのフランス優位の感覚を披露した。スタール夫人は、彼女の本である1813年の『ドイツについて』の中で、「自由への愛はドイツ人の間では育っていない」と宣言した。
 しかし、フランス人が最も見下したような態度をとるのは、彼らが古からの敵である英国人と相まみえた時だ。
 ナポレオン戦争の時に反英プロパガンダを執筆するために雇われたジョセフ・フィーヴェー(Joseph Fievee)は、イギリス人が文明を欠いており、富の創出に取り憑かれていてすべての時間を仕事に費やしていると攻撃した。スタンダールは、1821年にロンドンを訪問した際、このテーマをとりあげ、休むことなくイギリス人は仕事をし続けると非難されたことに対し、彼らはウォータールーで復讐した、と冗談口をたたいた。
 そして彼は、イギリス人は、シェークスピアの遺産にもかかわらず、カネづくりに関係のないいかなるものも読もうとはしない、と宣言した。
(続く)