太田述正コラム#3158(2009.3.17)
<黒人・米国・イギリス>(2009.4.25公開)
1 始めに
 黒人に対する米国の白人やイギリスの白人の「差別」について、改めて考えて見ましょう。
 米国の黒人差別は人種的なものであり、かつてはこの差別が制度化されていたのに対し、イギリスの黒人「差別」は文明的なものであり、またこの差別が制度化されたことは(植民地を除いて)ない、というのが私の認識であることは折に触れて申し上げてきました。
 このような認識を裏付けるような記事をご紹介することにしました。
2 戦後60年代まで続いた米国政府による対黒人金融差別
 「・・・1955年に一組の若いアフリカ系米国人の夫妻がシカゴのハイドパーク・・同じ近辺にバラクとミシェル・オバマが何十年か後に住み着いた・・の中の家を買った。
 ところがオバマ達とは違って、アルバートとサリー・ボルトンは月賦でその代金を払わなければならなかった。というのは、1950年代においては、連邦諸機関は人種的雑居地域においては購入者の抵当ローンに政府保証を与えることを拒否していたからだ。 
 手段が極めて限られていたため、ボルトン夫妻は当時としては大枚の13,900ドルという価格でセントラルヒーティングなしの築100年の家屋を購入する契約を結んだ。
 売り手は白人の不動産屋のジェイ・ゴランという男であり、この種の取引の専門家だった。
 彼は頭金わずか数百ドルでこの物件を売ったけれど、購入者が一回でも月賦の支払いを滞らせたらイリノイ州の法律に基づいて、彼は迅速かつ容易に5ドル未満の手数料で入居者の退去命令を得ることができた。
 ボルトン夫妻が契約書に署名してから、ゴランは毎月の月賦に追加的料金を上乗せした。夫妻が苦情を言っても、彼は話し合いを拒否した。それからというもの、入居規定監視人(housing code inspector)達が頻繁に訪問するようになった。
 まず夫妻はシャッターを撤去しなければならなかった。次いで正面玄関を作り直さなければならなかった。それから裏の入り口も修理しなければならなかた。
 18ヶ月経ったところで、ボルトン夫妻による月賦の支払いが滞った。するとゴランは退去命令の手続きをとった。購入予定者達がすぐに家に出没し始め、この若い夫妻はシカゴの貧乏暇なしの弁護士、マーク・サッターに助けを求めた。
 サッターがボルトン夫妻のために起こした、この前例のない訴訟の結果は、夫妻の退去時期を1959年まで延ばすことができただけだった。
 しかし、やがてサッターはゴランのやり口を調べ、その結果、例えば、この投機的不動産屋はこの家をボルトン夫妻に売るわずか1週間前に4,300ドルで買い、3倍の値で売りつけていたことが分かったほか、当時ほかの20の物件で取り戻し要求を行っていたことも分かった。・・・
 ・・・ジェイ・ゴランのような輩に黒人のシカゴ市民達がカモにされていた原因は貧困ではない・・・。なぜなら、1960年には同市の白人の3分の2と黒人の63%が比較的まともな収入を得ていたからだ。
 それより、・・・「米国の金融産業の人種差別的貸し出し政策」、そしてとりわけ1965年より前の連邦住宅局にもっぱらその責任がある<のだ>・・・。」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/03/13/AR2009031301268_pf.html
(3月15日アクセス)
3 有名人の黒人の血統話に興じるイギリス人
 (1)シャルロッテ王妃(ガーディアンによる)
 「・・・シャルロッテ王妃(Queen Charlotte・・・。1744~1818年)・・・はジョージ3世の妻であり、彼同様ドイツ系だ。
 我々は、彼女がキュー(Kew)植物園をつくり、15人の子供(うち13人が成人になった)を生み、また、彼女が芸術のパトロンであり、モーツアルトだって支援したかもしれないといったことを忘れているか、一度も聞いたことがないかもしれない。・・・
 この王妃は、ドイツ人ではあったが、ポルトガルの黒人系統の王室・・13世紀のポルトガル支配者であったアルフォンソ(Alfonso)3世と彼の愛人のマドラガーナ(Madragana)にまで遡る祖先を持つところの、15世紀のポルトガルの貴族の女性たるマルガリータ・デ・カストロ・エ・スーザ(Margarita de Castro e Souza)、の9代目の後裔なのだ。
 そして、このマドラガーナは・・・ムーア人、すなわち黒人のアフリカだというのだ。・・・
 ・・・多くの歴史家はこの・・・説に極めて懐疑的だ。
 シャルロッテと彼女のアフリカ人であるとされる祖先との世代が余りにも離れていて、仮にそうだったところで何の意味もないではないかというわけだ。
 しかも、彼らに言わせれば、マドラガーナが黒色の肌をしていたという証拠だって薄弱なのだ。・・・
 <ちなみに、>エドワード3世の后のフィリッパ・オブ・エイノー(Philippa of Hainault 。1314~69年)も祖先がアフリカ人であった可能性があるとされているところだ・・・。・・・」
http://www.guardian.co.uk/world/2009/mar/12/race-monarchy
(3月12日アクセス)
 この典拠に掲げられているシャルロッテの肖像画をご覧ください。
 (2)クレオパトラ(BBCによる)
 「・・・クレオパトラ<(紀元前70または69~紀元前30年)>は、アレキサンダー大王に続いてエジプトを統治したマケドニア人の将軍プトレマイオスの子孫だ。
 ところが、彼女の妹のアルシノエ(Arsinoe。紀元前68または67~紀元前41年)の亡骸がトルコのエフェソス(Ephesus)で発見され、クレオパトラの母親が「アフリカ人」の骨格であることが分かったのだ。・・・
  多くの人々が、クレオパトラはマルクス・アントニウス(Mark Anthony)にアルシノエを殺害するように命じたと信じている。・・・」
http://news.bbc.co.uk/2/hi/also_in_the_news/7945333.stm
(3月17日アクセス)
 なお、アルシノエについては、
http://en.wikipedia.org/wiki/Arsinoe_IV_of_Egypt
クレオパトラについては、例えば
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%A97%E4%B8%96
を参照のこと。
4 終わりに
 いかがですか。 
 米国の黒人差別がいかに露骨でひどいものだったかが、これだけでもよく分かるでしょう。
 それに対し、イギリスの黒人「差別」は陽性でしょう。