太田述正コラム#14806(2025.3.7)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その5)>(2025.6.2公開)
[パウルゼンの倫理学学説]
件の本は、System der Ethik (1889, 1899; Eng. trans. [partial] 1899)、であろうところ、この本・・但し、英訳の時点で抄訳本になっていたわけだ・・に書かれていたかどうかはともかくとして、表記は、’will is neither rational desire, unconscious irrational will, nor conscious intelligent will, but an instinct, a will to live (Zielstrebigkeit), often subconscious, pursuing ends, indeed, but without reasoning as to means. ‘というものであり、’Concerning will, he did influence namely his student and later friend, the German founder of sociology, Ferdinand Tönnies.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Paulsen α
であるという。
この中に出て来るテンニース<(1855~1936年)>は、「ホッブズを中心とする近代自然法学者たちの合理主義的な社会契約説と、ギールケやイェーリングなどのドイツ歴史主義の社会有機体説との対立に注目し、メーンの「身分から契約へ」のことばに、この両者の対立を克服するヒントを与えられ<、>さらにマルクス、コント、スペンサーなどの影響のもとに、社会を実在的・有機的なゲマインシャフトと、観念的・機械的なゲゼルシャフトの2類型に概念化<するとともに、>ショーペンハウアーとニーチェの影響のもとに、この両類型をそれぞれ実在的・自然的な本質意志と、観念的・人為的な選択意志との表現で理論化した<上で>、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの両概念を、現実を分析するための類型概念としながらも、また歴史の発展を示すものとして「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」の発展図式を示した。」
https://kotobank.jp/word/%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%88%E3%81%99-3160055 β
人物だ。
⇒βには、αに出てきたところの、テンニースがパウルゼンの意思(will)説の影響を受けたという話は出て来ないが、αの指摘が正しいとして、かつ、遠藤が言う、毛沢東がパウルゼンの倫理学の強い影響を受けたという話、も事実だとすればだが、後者を遠藤のように矮小化して捉えるより、毛沢東は、支那の真の独立と繁栄を達成するための中核政治軍事組織たる中国共産党は、中国国民党やソビエト連邦共産党のようなゲゼルシャフトではなく、(中共軍を中核とする)ゲマインシャフトでなければならない、という考えを固めることに繋がった、とでも捉えるべきではなかろうか。(太田)
「・・・1916年に袁世凱が死去すると、各地の軍閥が割拠した。・・・
1917年11月、敗退した北洋軍閥が長沙市に逃げ込んできたため、市民は恐怖に駆られ、第一師範も学生たちを避難させようとした。
ところがこのとき毛沢東は軍事訓練をしている学生たちを組織して志願軍を結成し、敗走兵を撃退してはどうかと学校側に提案したのだ。・・・
ちょうど1916年から軍事管理などの科目を増やし、軍事訓練を行なっていたところだった。
毛沢東は1911年、辛亥革命前夜に一時期、湖南新軍に従軍していた経験がある。
その時に受けた軍事訓練と、それまでに読んできた多くの書物の中にある戦法を応用して学生たちを組織したのだ。
200人ほどの学生志願軍をいくつかに分けて、3000人ほどの敗走兵が集まっている近くの山にひそませ、木刀を持たせて爆竹を激しく鳴らす。
一方では地元の警察にも協力をお願いして、実際の鉄砲を発砲させた。
敗走兵は、よほどの大軍に包囲されたと勘違いして怖気づいた。
そこで正面攻撃をすることなく使者を遣わして交渉に当たらせたのだ。
この戦法が功を奏して、3000人の敗走兵は降参し、持っていた武器をすべ学生志願軍および警察側に渡したという。
この成功は、・・・毛沢東の「ゲリラ戦」戦略のきっかけを作っている。」(34~35)
⇒こんなもん、ゲリラ戦ではなく謀略ですが、それはともかく、毛沢東の勇気も才覚も指導力も大したものではありませんか。
毛が、仮に、遠藤が言うような「限られた時間内に”自己実現”を果さなければならない」と思い込んでいた人物だったとしても、リスクをとることを厭わない、豪胆な人物であったことは間違いない、と、言えそうですね。(太田)
(続く)