太田述正コラム#14808(2025.3.8)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その6)>(2025.6.3公開)
「・・・同<1917>年、実は宮崎滔天(1871~1922年)が湖南省に演説に来ている。・・・
毛沢東は宮崎滔天の演説に深く感激し、またもや日本への尊敬の念を強めるのである。
クラスメートには、のちに中国共産党結成にも貢献した蔡和森<(注7)>(さいわしん)がおり、毛沢東は彼とともに1918年4月に「新民学会」<(注8)>を創設した。・・・」(35~36)
(注7)1895~1931年。「1921年2月フランスパリにおいて留学中国人らによって共産主義を掲げる中国少年共産党(略称「少共」)が創設され、蔡はこれに加入した。1921年10月に蔡は帰国し、上海で中国共産党に加入した。
1924年には『社会進化史』を発表し、1925年には五・三〇事件に参加、『告全国民衆書』を発表。その年の12月にはソビエト連邦に赴き、モスクワ中山大学に学んだ。
1927年の春にソビエト連邦から帰国した。中国共産党第五回全国代表大会において中央政治局委員、常任委員に当選し、中国共産党中央秘書長を兼任する。また、北方局委員、宣伝部部長にも就任した。1928年6月にはソビエト連邦で開催された中国共産党第六回全国代表大会として出席。中国共産党中央政治局委員、常任委員、中国共産党中央宣伝部部長に就任した。
1931年の年初にソビエト連邦から帰国して、3月に広州において中国共産党両広省委員会書記に就任した。同年6月、英領香港当局に逮捕され、広州で国民政府側に引き渡された。8月4日に広州軍政監獄で殺害されその一生を終えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A1%E5%92%8C%E6%A3%AE
(注8)「湖南省第四師範学校に在学中の毛沢東が、新文化運動の影響を受けたことで、ほかの学生ら10数人とともに設立されることとなった団体である。当初の新民学会というのは学生の互助や向上を目指すための団体であり、学術の向上や品行を磨くなどといった事柄が理念とされていた。だが1919年の五四運動でマルクス主義が学生を指導するようになったのを機に、多くの会員もマルクス主義に傾倒していくようになり、新民学会の理念もマルクス主義を基としたものに変更されることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B0%91%E5%AD%A6%E4%BC%9A
毛沢東は北京<に行ったものの、>大学受験資格がな<かった。>
唯一の道としては、普通高校卒業に相当すると認められるだけの実習あるいは研修をすれば、それが学歴として認められるという余地が残されていた。
そこで、<後に毛沢東の岳父となる>楊昌済は毛沢東を北京大学の李大釗・図書館長に紹介し、そのアルバイト的な助手にした。・・・
しかし、・・・1919年4月6日、毛沢東は長沙に戻って小学校の教員になり、そこで歴史をおしえるのだが、・・・<これは、>5月4日に北京大学を中心として起きた「五四運動」<(注9)>のわずか1カ月前だ。
(注9)政治的背景は2つある。まず対華21カ条要求受諾が挙げられる。第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣により袁世凱政権に対華21カ条要求が出され、袁政権は日本人顧問を置くとする5号条項(7ヶ条分)を除き、要求を受け入れた。国民はこの要求の最後通牒を受けた日(5月7日)と受諾した日(5月9日)を国恥記念日と呼んだ。
次の政治的背景には<支那>軍閥と日本との密接な関係が挙げられる。袁世凱は待望の皇帝となったものの、世論の激しい反発を買い、失意のうちに没した。その後、後継争いが発生し、中国は軍閥割拠の時代に突入するが、自軍強化のために盛んに日本から借款を導入した。その代表例が段祺瑞・曹汝霖と寺内正毅・西原亀三の間で取り決められた西原借款である。見返りは<支那>における様々な利権であった。1918年5月には「日支共同防敵軍事協定」が結ばれ、日本軍の<支那>国内における行動を無制限とし、また<支那>軍を日本軍の下位におくこととした。これら軍閥と日本との癒着は、<支那>民衆の激しい反発を呼び起こし、抗日感情を非常に高める結果となった。
文化的な背景として、まず新文化運動・白話文運動を挙げることができる。これらの運動は1910年代に起こってきた啓蒙運動で、陳独秀・李大釗・呉虞・胡適・魯迅・周作人などが運動のオピニオンリーダーであった。彼等は『新青年』や『毎週評論』といった雑誌を創刊し、それによって新思想を鼓吹した。すなわち全面的な西欧化や儒教批判、科学や民主の重視、文字及び文学改革などがその内容である。この運動を経た後だったからこそ、五四運動は抗日感情が高まっていながら、義和団の乱のような剥き出しの暴力性・宗教性をその性格としなかったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%9B%9B%E9%81%8B%E5%8B%95
中国の潮流を変え、中国共産党を誕生させるきっかけとなったこの大きなうねりを逃し、おめおめと長沙に戻ったのはなぜか。・・・
これは中国の最高学府への抵抗であって、ここにこそ毛沢東の決意の深さ、激しい劣等感がもたらすジャンプ力を、よりいっそう高めるもくろみがあったのではないかと思うのである。
だからこそ、あえて小学校を選んでやった。」(35~39)
⇒毛沢東を矮小化しようという魂胆があるためにこんな下世話な推測を遠藤はしてしまっているのです。
(続く)