太田述正コラム#14810(2025.3.9)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その7)>(2025.6.4公開)


[宮崎四兄弟と毛沢東]

 滔天が1917年の講演の中で直接言及した可能性もあるが、滔天を含む宮崎4兄弟について、毛沢東は関心を抱いて調べたはずだと私は思っている。

 八郎(1851~1877年): 
  「長兄の八郎は協同隊を組織して西郷軍に参加していた。「熊本民権党の中心人物として、つとに中央にも知られた逸材だった。」「ルソーの『民約論』を経典とする植木(*地名)学校をつくり、県民会開設等にも奔走した。」自由民権を信奉する若者たちが、西郷軍に加わる? 彼らはルソーを読み、泣きながら戦った、と言われる。熊本協同隊の行動は、西南戦争の謎の一つとして有名だ。八郎は「西南の役参加の理由を人に問われて「なァに西郷に天下取らせて、うまく行かねばまた謀反するさ」と答えた(後略)。」気分を出すために熊本弁にすると「なーんの、西郷に天下ば取らせち、ほどよう行かんごたるならまた謀反すったい。」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=08b203dbbcfed9c6e81fb5c96a20b612a6d0fdad8195328b06acfb9ceed3cef7JmltdHM9MTc0MDc4NzIwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=00cb7a4f-890f-66e8-130d-6f15880a6721&psq=%e5%ae%ae%e5%b4%8e%e5%bd%8c%e8%94%b5&u=a1aHR0cHM6Ly9va2luYXdhdW5pdmVyc2l0eS5yZXBvLm5paS5hYy5qcC9yZWNvcmQvMTYyMS9maWxlcy9ubzI5cDc5LnBkZg&ntb=1 ☆

⇒「毛は、・・・中学への入学の際に明治維新に関心を持って<いたところ>、父に幕末の僧である月性の詩の「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
くらいであり、当然、維新の英雄である西郷のことも知っていて、滔天の1917年の演説の中に八郎の話も出てきたであろうところ、改めて、西郷はもちろんのこと、大久保利通のこと、更には、この2人を導いた島津斉彬に係る、『順聖公御言行録』(『島津斉彬言行録』の原「本」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%9D%A5%E5%9B%9B%E9%83%8E
こそ刊行されていなかったけれど、1910年出版の小牧昌業述講話会編『順聖公事蹟』
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000436085
を、北京大図書館あたりで読んで、島津斉彬コンセンサス的なものの存在とその概要を把握していた可能性すら、完全に否定することはできないのではなかろうか。
 もっとも、だからと言って、『順聖公事蹟』の中に、支那を辱めよ、的な話が出てくるとも思えないが・・。(太田)

 民蔵(1865~1928年):
 「1888年(明治21年)頃から土地も天が作ったものである以上、全ての人間が均分して受ける権利があると考えるようにな<り、>・・・「平均地権」を唱え<るも、>・・・その思想が私有財産制の否定につながるとみた政府から警戒されて、運動は困難を窮めた。・・・
 民蔵は、弟の弥蔵・滔天とともに孫文の革命運動を支援し、2人の没後も最後まで孫文の支援者として活動した。・・・
 孫文の死の床を見舞った数少ない日本人のうちの1人である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%B0%91%E8%94%B5

⇒毛沢東の(武者小路実篤の)新しき村への強い関心(コラム#14417等)は、滔天を通じて民蔵の平均地権論に触発されたものではなかろうか。(太田)

 彌蔵(1867~1896年):
 「彌蔵が滔天に説いた議論は次のように要約される。
一 人が世に立つ以上、一定の大方針が必要である。自由民権一家に生まれた者として、私は些(いささ)かそのことに心を労してきたが、たとえ日本に人民主権の国が成立したとしても、その国土の位置、力量ともに列強のアジア侵略の防波堤とはなり得ないと思う。
二 一方世界の現状はますます弱肉強食の度を強め、アジア人の人権など顧みる者はいない。アジアの中心は中国だ。この国を革命して共和制の国を打ち立て、アジア人民連合
の根拠地とすれば、白人の帝国主義を押し戻し、世界の人道を回復することも、また夢
ではない。
三 要はこの大任に耐える人が、中国にいるのかどうかだ。私は決心して中国人に姿を変え、あまねく天下の英雄を探そうと思う。かの国は地広く、人は多い。いたらその人に
協力して犬馬の労を尽くし、いなければ不肖みずからがその任に当たるだけだ・・」(☆)

⇒支那人に身をやつした日本人ならぬ、日本人の心性を持った支那人たる自分、こそ、彌蔵が期待した支那人である、と、毛沢東は信じたのではなかろうか。(太田)

 滔天(寅蔵。1871~1922年):
 「1886年(明治19年)に上京。・・・東京専門学校(現早稲田大学)の英学部に入学している。 1887年、学資困窮となり帰郷。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%BB%94%E5%A4%A9

⇒毛沢東は、滔天が(現在の)早大でも学んだこと、日本留学経験がある楊昌済から、大隈重信が創立者であることを含め早大のことを聞いていたこと、また、その後自分が北京で出会った識者達の多くに早大留学経験があること(コラム#14778)、そして、その識者達や彼らに薫陶を受けた北京大生達が、大隈重信内閣の対華21カ条要求等に憤激して五・四運動を起こそうとしていることから、かつまた、維新直後、大隈の明治新政府内における教導者が大久保利道であったことからも、自力で、当時の日本の指導者達の中で、「支那を辱めよ」的な戦略が共有されていることに気付き、かかる日本の戦略に踊らされようとしている、当時の支那の識者/インテリ達の愚かさに気付いたことから、毛は、自分こそがこれら日本の指導層が出現を期待していた支那人であるとの自覚の下、これら愚かな支那の識者/インテリ層を含む、愚かな支那人民を誑かす形で自分の下に結集させ、ボトムアップの形で地方から新しい支那を建設を目指すことで、日本の指導層の期待に応えようとの決意の下、あえて、五・四運動直前に、首都の北京から郷里に帰った、と、私は見るに至っている。(太田)

(続く)