太田述正コラム#14812(2025.3.10)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その8)>(2025.6.5公開)

 「・・・毛沢東が湖南省で戦おうとした<軍閥の>張敬堯<(注10)>は、地元の青幇(チンパン)とか紅幇(ホンパン)といった(マフィアのような)秘密結社とも結びつき暴政をほしいままにしていた。

 (注10)張敬堯(1880~1933年)。「安徽省<の某>県の下級官吏の家庭に生まれた。しかし張敬尭は若い頃は放蕩を尽くす。ついには盗賊に身を落として殺人を犯し、京津地区に逃げ込んだ。1896年(光緒22年)頃、袁世凱の新建陸軍に参加し、随営学堂で学んだ。その後、保定軍官学堂も卒業<。>・・・
 北京政府の派閥争いでは、安徽派に所属している。
 1918年(民国7年)1月、段祺瑞の命により、張敬尭は南方政府(護法軍政府)討伐のため湖南省へ進軍した。しかしこの時は、直隷派の呉佩孚や馮玉祥らが長沙を占領するなど、その活躍が目立っている。それにもかかわらず3月27日、張敬尭は、段祺瑞から湖南督軍兼省長に任命された。この人事は、当然ながら呉佩孚・馮玉祥らの反感を招くことになった。
 張敬尭の実効支配はわずかに長沙と岳陽一帯に限られ、直隷派や南方政府側の軍人たちも湖南省内各地に割拠する状況となる。しかも、張敬尭の統治手法は搾取的、かつ、拙劣・腐敗したものであったため、湖南省の社会各層の反発まで招くことになった。1920年(民国9年)6月、南方政府軍が湖南省を奪回しようと反撃に転じる。しかも呉佩孚・馮玉祥らも張敬尭を見捨てたため、張敬尭は戦わずして湖北省に逃走した。張敬尭は、その醜態故に段から罷免され、上海へ逃げ込んだ。・・・
 1932年(民国21年)、張敬尭は満州国に降る。1933年(民国22年)には平津第2集団軍総司令に任命されるなどして、華北で各種軍事・謀略活動に従事した。その一環で、張敬尭は密かに北平入りし、旧部下たちを組織して日本軍に呼応しようとした。
 しかし5月7日、北平の東交民巷六国飯店(ホテル)において、張敬尭は軍統の刺客に襲撃され、殺害された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%95%AC%E5%B0%AD
 軍統=国民政府軍務委員会調査統計局、は、中国国民党の秘密工作組織。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%B5%B1%E8%A8%88%E5%B1%80

 毛沢東が創刊した『湘江評論』<(注11)>も、1カ月のちには発禁にしている。

 (注11)「1919年7月14日に中華民国で創刊された、毛沢東によって編集されていた湖南学生連合会の機関紙の名称。社会運動に参加する人々の政治意識を高め、政治的自覚を促すことを目的として出版されていた。毛沢東の最初の政治論文である「民衆の大連合」が連載されていた機関紙でもある。週刊であり5号まで発行されたが、8月に軍閥によって禁止された。発行部数は5000に達していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%98%E6%B1%9F%E8%A9%95%E8%AB%96

 激怒した毛沢東は、・・・「打倒張敬堯運動」を起こす。
 地元の労働者、民衆を組織化しただけでなく「打倒張敬堯」というパンフレットを大量に作成し、上海や広東あるいは北京など、進歩分子の集まる地域に配り、抗議表明を各地で行なった。
 湖南省の改革の改革をテコに、こういった運動を全国に広げていこうと考えたのだ。
 この運動はさまざまな新聞にも載ったため、全国各地の進歩的知識人のもとに届いた。
 北京にいた恩師、楊昌済の目にも止まり、楊昌済は病床の身にありながらも、「救国を語るならば、かならず毛沢東と蔡和森<(前出)>を我が国の逸材として重用しなければならない」と、然るべき要所、要人に人生最後のメッセージを伝えている。
 毛沢東自身も短期間ではあるが、北京に再び顔を出したり上海にも行ったりして、地方軍閥打倒運動を宣伝した。
 その間に、中国共産党を立ち上げる中心人物である陳独秀や李大釗などにも会っている。」(48)

⇒楊昌済が、どちらも自分の教え子で熟知しているところの、毛沢東と蔡和森、を、熱心に推したことが、毛沢東の中国共産党設立総会参加、や、蔡和森の仏留後の中国共産党内での要職歴任をもたらした、と、言えそうです。
 もとより、陳独秀や李大釗も、毛沢東の人格、識見を高く評価していたのでしょうが・・。
 遠藤は、これらの人々の毛評価をどうして認めないのでしょうか。(太田)

(続く)