太田述正コラム#14814(2025.3.11)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その9)>(2025.6.6公開)
「・・・1925年3月に孫文が逝去した。
すると<国共合作下にあったところの、>国民党の左派と右派との間の亀裂が表面化し、1925年8月に国民党左派の長老、の・・・廖承志の父親である・・・廖仲愷<(注12)>が暗殺される。・・・
(注12)りょうちゅうがい(1877~1925年)。「サンフランシスコで、客家の銀行員の家庭に生まれ<、>1893年(光緒19年)に母を伴って帰国し、1896年(光緒23年)には香港に赴いて英語を習得した。」<その後、>早大予科を経て中大卒、「1911年・・・10月、武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、廖仲愷は広東に戻って革命派陣営に加わり、広東省軍政府総参議兼理財政となる。まもなく南方政府代表として、袁世凱陣営の北方代表との南北交渉に臨んだ。
1913年(民国2年)3月、宋教仁が暗殺されると、廖仲愷は北京に赴いて反袁世凱活動を展開した。しかし同年の第二革命(二次革命)失敗に伴い、孫文や胡漢民と共に日本へ亡命している。翌年、東京での中華革命党結成に参加し、財政部副部長に任ぜられた。1916年(民国5年)4月、孫文とともに帰国し、反袁活動のための資金収集に奔走している。
1917年(民国6年)、廖仲愷は孫文を支援して護法運動に従事したが、翌年に護法軍政府が7総裁制に改組され、主席総裁岑春煊が実権を奪うと、孫に従って上海に逃れた。1919年(民国8年)8月、孫の指示で胡漢民・朱執信らと共に雑誌『建設』を創刊する。廖はこの雑誌で孫の三民主義を大いに宣伝している。
1921年(民国10年)、孫文が広州に戻って非常大総統となると、廖仲愷は財政部次長兼広東省財政庁長に任命される。翌1922年(民国11年)6月、陳炯明が反孫クーデターを起こした際に、廖は陳の軍により一時拘禁されてしまったが、何香凝らの支援のおかげで危地を脱し、上海で孫に合流した。
同年8月、ソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェが中国を訪問し、孫文と聯ソ・聯共について話し合う。翌月には、廖仲愷が孫文の委任を受けてヨッフェと共に東京を訪問し、引き続きこれらの件について協議した。1923年(民国12年)1月、「孫文・ヨッフェ共同宣言」が公表され、平等にして友好な中ソ関係の樹立について宣布されている。廖はその後もソ連との交渉を担当し、「聯ソ、聯共、扶助農工」の三大政策の確立に尽力した。
同年春に孫文は広西軍・雲南軍の協力を得て陳炯明を撃退し、広州で陸海軍大元帥となった。このとき、廖仲愷は大元帥大本営財政部長兼広東省長に任ぜられている。また、中国共産党との連携を確立するための交渉や制度準備にも取り組んだ。
1924年(民国13年)1月、中国国民党が結成され、第1次全国大会を開催した。このとき、廖仲愷が主導してきた準備に基づき、第1次国共合作も成立している。廖は引き続き大本営財政部長をつとめた他、党中央執行委員、党常務委員、党政治委員会委員、党工人部長、党農民部長、黄埔軍官学校党代表、軍需総監、大本営秘書長などの要職を兼任している。聯ソ・聯共路線の推進に加え、黄埔軍官学校の教育制度整備、労働団体・農民団体の組織にも尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%96%E4%BB%B2%E6%84%B7
<す>ると、・・・国民党右派が台頭し始めた。
そのトップが蒋介石だったのである。
しかし国民党左派には、まだ国民党の元老、汪兆銘がい<て、>・・・広州の国民政府の主席の座に就いていた。・・・
1925年9月、湖南から戻り、広州にかけつけた毛沢東は、汪兆銘から国民党中央宣伝部長代理を任命される(同年10月15日)。
汪兆銘は・・・自分が兼任していた宣伝部長の職を・・・譲<った>のだが、なんとも奇妙なねじれ現象ではないだろうか。
のちに日本の傀儡政権の主席となる汪兆銘は、まるで弟のように毛沢東を可愛がり、2人はこのとき大の仲良しになるのだ。」(56~57)
⇒「ねじれ現象」どころか、孫文(1866~1925年)は、1878~1883年までハワイで、それから香港で医学をまなび、マカオで医師として開業し、1894年11月にハワイで興中会を組織し、1895年に広州蜂起に失敗し日本に亡命し1903年頃まで滞在こそしたことがあるものの、人間形成は欧米環境下になされた人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87
同じことが、「注12」からも分かるように、廖仲愷についても言えるところ、当時の欧米は侮日/反日であったことから、2人とも反日家になったのに対し、汪兆銘(1883~1944年)も毛沢東(1893~1976年)も、支那で人間形成をし・・当然、儒学を身につけ、仁=ほぼ人間主義、への傾倒がある・・、汪は日本留学により、毛は独学で、日本大好き人間になった親日家であって、どちらも明治維新や日露戦争での日本の勝利に熱狂した、というわけで、肝胆相照らす間柄になったのは当然でしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98 ←汪兆銘
なお、汪兆銘のように支那で人間形成をした上で日本留学をした者達の大部分が汪とは違って反日になったのは、要は、秀才バカが多く、島津斉彬コンセンサス信奉者達の「支那を辱めよ」戦略にまんまと乗せられてしまったためである、と、我々は理解すればいいでしょう。(太田)
(続く)