太田述正コラム#14816(2025.3.12)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その10)>(2025.6.7公開)
[蒋介石]
支那で人間形成を行い、日本に留学した蒋介石(1887~1975年)が、親日ではなく反日人間になった理由は、極めて特殊なものだ。
まず、蒋の邦語ウィキペディアから、彼が、通常教育を1年間受けただけで、後は軍人としての教育しか受けていないことが分かる。↓
「1887年、浙江省寧波府奉化県(現:寧波市奉化区)渓口鎮に生まれる。・・・1904年、奉化の鳳麓学堂や寧波の箭金学堂で学ぶ(1904年 – 1905年)。1906年、保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける。1907年、日本に留学(東京振武学校)する。1909年、大日本帝国陸軍に勤務。高田の陸軍十三師団の野砲兵第19連隊の士官候補生( – 1911年)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A3%E4%BB%8B%E7%9F%B3
その背景事情は、蒋の英語ウィキペディアを読むと明らかになる。↓
<Chiang> was an orphan boy in a poor family. Deprived of any protection after the death of <his father>・・・when he was eight・・・
Chiang decided to pursue a military career. ・・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Chiang_Kai-shek
ここから言えるのは、蒋介石は、支那で人間形成を行ったことは確かだが、漢人(支那人)としての教育は受けていないに等しい、ということだ。
彼が、最も早ければ、実に8歳の時に、軍人になる決意を抱いたのがその証拠だ。
考えても見よ。
支那には、軍人を蔑む確固たる伝統があった。
例えば、支那には、「好鉄不打釘、好人不当兵(釘にするのは屑鉄、兵隊になるのは人間のクズ)」という諺があった
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2013/01/post-934b.html
ところ、その淵源は、「兵(軍隊)は不吉なものであり、よって徳と分別があるものはこれに近寄らない。君子は左の席を上座とするのに、軍隊では右を上座とする。兵(軍隊)は不吉なものであり、君子のような高尚な人が取り扱うものではない。やむを得ず使う場合はできるだけあっさりと最小にとどめることが肝要である。
また戦で勝ってもそれを美談としてはいけない。勝利を良いことだと思う人間は人殺しを楽しむ人間の類である。人を殺すことを愉しむ輩には天下を取る志を持っているはずがない。通常、縁起のいいことでは左を上座にし、不幸事では右を上座とする。
軍隊では大将が右に座り、副将が左に座る。つまりこれは葬式の作法に則った行いである。
戦いでは勝利しても多くの人を殺すことになるので悲哀を以てこれを泣き、戦に勝っても葬儀の作法でこれに報いる必要がある。」(『老子』第三十一章より)
https://hanagakibugaku.com/?p=3580
と、実に『老子』等に遡るのであって、支那では「武官、武人<の>統率は文民官僚を用いて行<い>、文民が武人の上に立つという」伝統が確立しており、「宋朝<に至って>は、一般の労役に耐えないような人を軍籍に置くことで、彼らに生活の場を与え、治安を維持するという社会福祉政策として軍が使われてい・・・た」という有り様だった。(上掲)
蒋は、貧しい家庭に生まれ、なおかつ8歳の時に父を亡くすという悲惨な境遇の下、周り中にいる阿Q達による詐取やゆすりたかりに対抗するためには、自らが弥生性を身につけなければならないと考え、非漢人(支那人)的であるところの、軍人、への道を選んだわけだ。
だから、蒋介石は、仁や日本文明の人間主義性になど全く関心を持たず、弥生性の観点だけから日本(やもちろんその他の諸国)を評価したものだから、悔日の孫文が日本の支那への介入を跳ね返そうとしたことに、他の反日の人々と同じく(思慮不足の)理由で賛同しつつも、その手段として孫文のように(接壌国なので危険な)ソ連の軍事力に頼るのではなく、より軍事力が強そうでしかも遠国のドイツに頼り、次いでそのドイツを切り捨て、最終的に最も軍事力が強いと同時にやはり遠国の米国に頼った、というのが私の理解だ。
(続く)