太田述正コラム#2870(2008.10.24)
<20世紀初頭の欧州史(その1)>(2009.5.1公開)
1 始めに
 自分は欧州人の一人であるという自覚を持っているめずらしい英国人もいます。
 ハンブルグで生まれ、ウィーンとオックスフォードで勉強し、オックスフォード大学で近代史の博士号を取得し、ロンドンとパリに住んだ後、現在ウィーンに住んでいるフィリップ・ブロム(Philipp Blom。1970年~) もその一人です。
 彼は、歴史家であり、小説家、ジャーナリスト、かつ翻訳家として活躍しています。
 小説は2冊書いており、一冊は英語でもう一冊はドイツ語の小説であるというところにも彼の欧州人たるゆえんがあらわれています。
 (以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Philipp_Blom
(10月24日アクセス)による。)
 そんなブロムが、1900年から1914年までの欧州史、’The Vertigo Years: Change and Culture in the West, 1900-1914’を上梓しました。
 興味深いのは、そんな彼が書いたにもかかわらず、この本からはイギリスと欧州大陸諸国の異質性がかいまみえる点です。
 (以下、特に断っていない限り、いずれもこの本の書評であるところの、
http://www.guardian.co.uk/books/2008/sep/13/philipp.blom.vertigo.years
(9月13日アクセス)、
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/book_reviews/article4589042.ece
http://www.whatsonwinnipeg.com/index.php?option=com_content&task=view&id=66552&searchpanel=advrestaurant
http://www.orionbooks.co.uk/HB-36973/The-Vertigo-Years.htm
(いずれも10月24日アクセス)による。)
 ちなみに、1900年にはパリ万博が行われましたし、1901年には英ビクトリア女王が孫であるドイツの皇帝ウィルヘルム2世(コラム#426、1893)に手をとられて崩御しています。1914年は言うまでもなく、第一次世界大戦が始まった年です。
2 20世紀初頭の欧州史
 (1)全般
 20世紀初頭の欧州は、漂流する世界であり、創造性と矛盾のパルサー星のような時代だった。当時新鮮な話題であったのが、テロリズム、グローバリゼーション、移民、消費者運動、道徳観念の欠如、そして競い合う超大国、となると、果たしてこれが一世紀前のことで、この時代がソンム(Somme)、イープル(Ypres)、そしてパッシェンデール(Passchendaele)の会戦によって消え去ったなんて信じられるだろうか。
 目を近づけて眺めてみると、この世界はわれわれの世界そっくりに見えてくる。
 フェミニズム、量子理論、無調音楽、民主化、マスコミュニケーション、商業的ブランド創出(commercial branding)、遺伝学(genetics)、国家によるジェノサイド(state-sponsored genocide)、植民地主義、消費者運動、人種主義、放射能、精神分析、はすべてこの期間に初めて用いられた言葉なのだから。
 ・・・1918年以降に開花した唯心論(spiritualism)でさえ、この頃から流行になりつつあった。その「高僧」たるブラヴァツキー(Helena Blavatsky。1831~91年。ウクライナで生まれ、ロンドンで死去(太田))夫人は、『種の起源』をその腕の下にかき抱いたヒヒの剥製を彼女の部屋に置くことによって、ダーウィン的な物質主義への軽蔑の念を表明したものだ。
 1900年のパリ万国博覧会では、ヘンリー・アダムス(Henry Adams。1858~1929年。米国人(太田))が発電機のうなり声をあげる力を、「道徳的な力として、あたかも初期キリスト教徒が十字架について感じたように」実験して見せた。日本はロシアを、機関銃より聖像(icons)を用いることで、そして軍事諜報の代わりにロンドン・タイムスを用いることで打ち破った。
 1914年までに、ビクトリア朝時代人にとって理解不可能なポスト1918年世界をつくることとなる変化に向けてあらゆるものが準備を整えていた。この目眩の(vertigo)年々に、フロイトの著作が無意識的精神を見いだしたことと19世紀的自信(confidence)の崩壊とが共鳴し合った(coalesce)ことが象徴しているように、「確実性は稀少財となった」のだ。・・・
 <第一次世界>大戦は、誤って思い込んでいただけの牧歌的風景の途絶をもたらしたというより、既に崩れつつあった欧州の構造が永続的な変化を遂げる触媒となったに過ぎないと見るべきだろう。・・・
 不寛容が社会のあらゆるレベルに有毒な裂け目のように行き渡っていた。極めて憂慮すべき反ユダヤ的なドレフュス事件以降、フランスでは人種的宗教的頑迷さが記述され、実践され、弁護されたが、その後、ロンドンのユニバーシティ・カレッジという、ブルームスベリーの緑多き広場のど真ん中で、人種のコントロールに係る優生学(eugenics)に関する国際会議が開催される、という寒気がするような展開となった。民族浄化が唱えられ始めた。既に1906年にはイギリスで排外主義が高まっていた。デイリーメール紙は読者に向かって「スイス人」給仕が実はドイツ人ではないか、パスポートを調べるように勧告した。「興味津々の美容師」や無口なタクシー運転手は潜伏しているスパイと見なされた。
 最上層部における腐敗は、ドイツ皇帝による、影響力ある、おそらく彼と同性愛関係にあったと思われるところの、顧問でありかつかつての友人たるフィリップ・ユーレンブルグ(Philip Frederick Alexander, Prince of Eulenburg and Hertefeld, Count of Sandels。1847~1921年(太田))に対する衝撃的な性的裁判一つとっても明らかだった。ロシアの小作人が経験していたひどい貧困と社会的底辺に置かれた惨めさと暴力と、弱々しく鷹揚で自己中心的なロシア皇帝の宮廷とが共存していた。ロシアで1917年の革命がもっと早く起こらなかったことがむしろ不思議なくらいだった。
 第一次世界大戦の流血は、それに先立つ年々における欧州内で企画され欧州外で実行に移されたところの、欧州諸国の支配下の地域において生じていた屠殺(butchery)の文脈で理解されるべきだ。英国人によるボーア人の残虐な取り扱い(コラム#310)は、ベルギー領コンゴにおける戦慄すべき人権蹂躙状況(コラム#149)と好一対だ。嘘つきのレオポルド国王が新聞記者に語ったところによれば、彼の使用人たる「手保管人」達は、毎日の天然ゴム採取枠を達成できず手を切り落とされた者の記録をつけていた。
(続く)