太田述正コラム#14830(2025.3.19)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その16)>(2025.6.14公開)
「・・・ようやく・・・貴州省の遵義県まで落ち延びたときには、10万人だった紅軍は3万5000人にまで減っていた。
1935年1月15日から17日間、・・・「遵義会議」<が>開<かれた>。・・・
コミンテルンの指示による攻撃型戦法の失敗を総括し、ソ連組が失脚する。
そこで「周恩来、張聞天、毛沢東」の3人体制が決議されるのだが、周恩来は・・・軍事の最高責任者の地位を毛沢東ひとりに譲<り、>・・・毛沢東は中共中央軍事委員会主席に選ばれた。・・・
⇒毛沢東の方が周恩来より3歳上であり、中国共産党入党も周恩来は毛沢東より後であり、最初から毛が兄貴分で(以上、両者のウィキペディアによる)、長征前から遵義会議までの間も、周恩来は事実上毛の意向に従っていた、と、私は見ています。(太田)
筆者はかつて、アメリカのスタンフォード大学フーバー研究所の図書館にのみおいてある蒋介石直筆(毛筆)の日記をよむためにフーバー研究所に通ったものだ。・・・
志の高潔さ、本気で国を思う責任感。
それは一文字一文字の毛筆からにじみ出て、深い感動を与える。
彼は本気で「中華民族」のことを考え、国を憂い、民を第一に置いていた。
しかも蒋介石は・・・コミンテルンの・・・考え方をすべて見抜いていたのだ。・・・
⇒1927~1937年の第一次国共内戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%86%85%E6%88%A6
当時も、密かにコミンテルン/ソ連と連絡を取り続けたであろう者達も含めたコミンテルン/ソ連事情に詳しい容共左派が中国国民党内に多数いたこともあり、蒋介石がコミンテルン/ソ連の考えをすべて見抜いていたとしても不思議ではありません。
その上でですが、(杉山元のいわゆる「杉山メモ」もそうでした(コラム#省略)が、)人に見られる可能性があるところの、日記、に、蒋介石が自分がらみの出来事や自分の考えを正直に書いていると思い込んでいるらしい遠藤が私には理解不能です。
もとより、自分用の備忘録でもあるのですから、虚偽の出来事は記さないでしょうが、公開されて都合が悪い出来事は書くはずがありませんし、公開されて都合が悪い自分の考えについても、書かないか、粉飾を施して書くはずです。
例えば、国民党政府の腐敗、就中自分・・自分自身を含む・・の一族郎党の不正蓄財、に関する出来事や考えなど、彼が書くわけがありません。
この日記が、人に読まれる可能性を顧慮してメーキングされていたからこそ、蒋介石の命を救った可能性があります。↓
「張学良は、<1936年>2月21日と3月3日に中共中央連絡局局長李克農と、4月9日には周恩来と極秘に会見し、9月下旬、両軍は「抗日救国協定」を結び停戦することになった。この時、既に対蔣介石クーデターの構想などが練られていたと言われる。・・・
張学良は西安事件<を起こし、監禁した>蔣介石の日記を読み、彼が対日戦略のために臥薪嘗胆の計を取っていることを知り驚愕する。しかし、蔣介石がこ<んな>本心を公言すれば、それは、中国<国民党政府>が臥薪嘗胆の計を取っており、ひそかに全面的な抗日の準備をしていると日本に教えるに等しく、その結果、日本の対中強硬派の本格的な<支那>侵略の開始を早める結果を招くのは明らかであるため、張学良にも教えられていなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF (太田)
注目しておきたいのは、蒋介石はこのとき日本となんとか和平交渉をすることができないかと、日本の広田弘毅外相と何度も話し合っていたことである。
広田外相は「広田三原則」を発表して、日中和平工作に本気で力を注いでいた。・・・
⇒蒋介石が臥薪嘗胆策を自分の日記に書いていた以上は、和平交渉も、仮に和平がなったとしてもその和平も、欺騙工作でしかない可能性を排除できないところ、にもかかわらず、遠藤がこういう断定的な書き方をしたこともまた、私には理解不能です。(太田)
<ところが、盧溝橋事件が起こった。>
西安事件が起きるのが1936年12月で、日中が全面戦争に入るきっかけとなる盧溝橋事件が起きるのが1937年7月7日。・・・
これは、どう考えても時系列的整合性がない。・・・
⇒盧溝橋事件が起こって日支間の熱戦が続く騒然たる状況下で、中国共産党のイニシアティブで下交渉から始めて第二次国共合作にまで至る保証はありません。
他方、盧溝橋事件的な事件を中国共産党が引き起こすことは容易、かつ完全に可能でした。
こういったことから、第二次国共合作への目途を付けてから盧溝橋事件が起こる方が時系列的整合性があることは明らかです。
よって、ここでも、遠藤の発想が私には理解不能です。(太田)
事前に、日本がやがて日中戦争に入る極秘の動きをしていたことを知っていた人物がいて、それをコミンテルンに知らせたと<しか考えられ>ない。・・・
<その人物こそ>ゾルゲ<だったのではないか。>」(87、97~99)
⇒私は、むしろ、杉山元らが、意図的に、ゾルゲや尾崎秀実らを泳がしていた、と見ているわけです。(コラム#省略)(太田)
(続く)