太田述正コラム#14828(2025.3.18)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その15)>(2025.6.13公開)
「・・・日本軍のいない西北に「逃げろ」と打電してきたのはコミンテルンだ。
いざとなったらソ連に逃げさせようという心づもりもあった。」(86)
⇒ここが典拠抜きでは話になりません。
その「西北」が延安のある陝西省だったとして、常識的には、そんなリスキーなことをコミンテルン/ソ連が中国共産党に命じる筈がないからです。
長征は、1934年7月に囮部隊を北方に派遣して壊滅させる犠牲をはらって、8月から西南方に主力を脱出させ始めて始まったもの(至1936年)ですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81
これは、毛一派と杉山元らの間ですり合わせを行った上で、最初から、延安を毛一派の次の根拠地、しかも安全な根拠地、とすべく、国民党軍による妨害を出来る限り回避するために大迂回をしつつ、この延安を最終目的地として共産党軍を移動させたものであり、延安とソ連との間の兵站線が形の上で切れないようにするため、帝国陸軍は、内蒙古中、延安のある陝西省北方より手前までしか進出しないことが約束されていた、と、私は見ているわけです。(注18)
(注18)満州国建国後の内蒙古東部における日本の傀儡政権たる蒙古軍政府の樹立。↓
「1933年に日本軍は熱河省更には察哈爾省東部まで占領し、7月にはデムチュクドンロブ(徳王)ら内蒙古一帯の有力者が集まって国民政府に自治を要求。これに対し国民政府は蒙古地方自治政務委員会を設置し、ユンデン・ワンチュク(雲王)を委員長に据えたが実権は自治指導長官の何応欽が握っていて形式的なものに過ぎなかった。このためデムチュクドンロブは関東軍と連絡を取り内蒙古の独立へと動いたが、1936年に至り国民政府は蒙古地方自治政務委員会を察哈爾・綏遠の各蒙政委員会に分割し関東軍やデムチュクドンロブの動きを制限しようとした。これに対して2月にデムチュクドンロブは蒙古軍司令部を立ち上げ、5月12日には徳化に蒙古軍政府を樹立した。軍政府はモンゴル人によって構成されていたものの、村谷彦治郎首席顧問・山内源作軍事顧問など関東軍から派遣された日本人顧問が内面指導していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%BB%8D%E6%94%BF%E5%BA%9C
日支戦争直前における関東軍の暴発阻止。↓
「綏遠事件(すいえんじけん)は、1936年末、徳王麾下の内蒙軍、李守信や王英などの部隊が関東軍の後援をたのんで綏遠省に進出し、同省主席の傅作義軍に撃退された事件。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%8F%E9%81%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
関東軍東條参謀長直轄チャハル作戦における寸止め侵攻。↓
「チャハル作戦(ちゃはるさくせん)とは、1937年(昭和12年)8月9日から10月17日にかけて行われた察哈爾省・綏遠省(現在の内モンゴル自治区)における日本軍の作戦である。」
https://ja.wikid.org/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6#gsc.tab=0
ちなみに、チャハル作戦の後、「蒙疆地区には、蒙古聯盟自治政府の他に察南自治政府・晋北自治政府が設立されたが、利害関係を調整して活動の円滑化を図るため、1937年11月22日、3自治政府によって蒙疆聯合委員会が設立された。しかしこの委員会が十分に機能しなかったため、3自治政府を統合して蒙古聯合自治政府を樹立することとなり、・・・10月28日、・・・蒙古聯盟自治政府は新政府に合併されて消滅した<ところ、支那>の日本軍占領地区では<支那>人の阿片生産は禁止されるとともに阿片は日本軍の専売商品とされたが、この蒙古聯盟自治政府地域で日本軍指導により大規模に阿片農場が開発され、そこで栽培された阿片が満州国以外の<支那>地域で販売されて」おり、
https://ja.wikid.org/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%81%AF%E7%9B%9F%E8%87%AA%E6%B2%BB%E6%94%BF%E5%BA%9C
この収益の一部が延安に流されていた、と、私は見ています。(太田)
(続く)