太田述正コラム#14826(2025.3.17)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その14)>(2025.6.12公開)
「・・・満洲事変が起きたというのに、まるで「おかまいなし」のように1931年11月7日、中華ソビエット共和国が江西省の瑞金で正式に誕生し、臨時政府が樹立された<わけだ>。
臨時政府の主席に選ばれたのは毛沢東である。
井岡山であげた「手柄」が功を奏した。・・・
⇒江西省の東南の福建省との省境に位置する瑞金(注15)を「首都」にしたということは、福建省を勢力圏とする日本、つまりは、帝国陸軍、の保護下に毛が率いる中国共産党が、それまでに入っていたことを意味する(コラム#14417)、というのが私のかねてよりの主張であるわけです。(太田)
(注15)「唐末に金の採掘所があったことが、地名の起源だと考えられる。・・・
主な河川は綿水(贛江の源流である貢水の、上流部での名称)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%87%91%E5%B8%82
「贛江(かんこう・・・)、あるいは贛水(かんすい)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、鄱陽湖に流入している長江右岸の支流。江西省を南北に貫く江西最大の川である。・・・
贛江の年平均流量は687億立方mで、黄河よりも多い。ただし・・・川床は浅いため、水運は中流・下流にほぼ限られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%9B%E6%B1%9F
毛沢東は・・・「ゲリラ戦法」を基本戦略に置いていた。
それに対して、依然として上海中共中央局を牛耳っている王明などのソ連組は「正面出撃」を主張。
「毛沢東のゲリラ戦術は退却と逃亡でしかなく、まるで三国志の世界だ」と、コミンテルンが毛沢東を批判し、毛沢東の代わりに張聞天<(注16)>(ちょうぶんてん)を人民委員会主席の座に就けた。
(注16)1900~1976年。南京の河南工科大入学、日本に遊学、カリフォルニア大バークレー校聴講生、中国共産党入党後モスクワ孫逸仙大留学。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A0%E9%97%BB%E5%A4%A9
「30年帰国して李立三路線に反対し,共産党中央農民部長,宣伝部長を歴任した。 33年江西ソビエト区に入り,中央委員会書記局書記,宣伝部長などをつとめ,34年中華ソビエト政府人民委員会主席,35年遵義会議で総書記に選ばれた。 39年共産党中央委員会書記局第一書記を経て,45年七全大会で中央委員,政治局委員となり,51年第2代ソ連駐在大使,54年外交部副部長を兼任,55年同副部長専任 (1959退任) ,56年八全大会で中央委員,中央政治局委員候補に選ばれたが,59年盧山会議で右傾分子として批判された。さらに文化大革命時期に反党分子として再批判され監禁された。 79年名誉回復。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%B5%E8%81%9E%E5%A4%A9-98175
⇒毛沢東は、1938年に『遊撃戦論』を刊行していますが、そのネタ元を明らかにしていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E6%92%83%E6%88%A6%E8%AB%96
いささかぶっとんだ私の仮説は、そんなものはなかったのであって、日本と暗黙裡に提携しつつ国民党軍からの攻撃に正面から反撃せず、極力兵力温存を図る戦略を後付けで合理化する・・誤魔化す・・ためにでっち上げたプロパガンダ文書が『遊撃戦論』である、というものですが・・。
その証拠に、先の大戦が終了し、日本が去ってから、今度はソ連の後ろ盾の下で行った国共内戦(第二次国共内戦)の際には、共産党軍は遊撃戦をほぼ封印し、もっぱら正規戦で戦っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%86%85%E6%88%A6 (太田)
コミンテルンはさらに軍事顧問としてドイツ人のオットー・ブラウン<(注17)>(中国名・李徳)を派遣した。
(注17)1900~1974年。「1932年、伍長として実戦経験を積んだ後、王明からの依頼で上海に派遣されることになった中国共産党の軍事顧問となる。ソ連を代表する立場ではなく、顧問団の一人にすぎなかったという話もある。・・・
1933年10月、蔣介石が指揮する国民革命軍(中国国民党軍)により、中央ソビエトの第5回討伐が始まった。国民党軍にはこの年5月から中独合作の一環としてドイツの軍事顧問ハンス・フォン・ゼークトが赴任していた。ゼークトは蔣介石に対し、これまでの作戦を転換して、陣地を築きながら少しずつ前線を進めることを進言した。一方、ブラウンは軍事経験に乏しく、数的な不利にもかかわらず消耗戦を展開した。中共軍は必然的に徐々に追い込まれ、ついに1934年10月に江西撤退を決意し、いわゆる長征の旅に出る。
中国共産党はこれまでは博古、ブラウン、周恩来で「三人団」を形成して重要事項を決めていたが、黎平にたどり着いたとき、ブラウンと周恩来は激しく対立した。1935年1月、貴州省にたどり着いたとき開催された遵義会議で、周恩来が毛沢東に寝返ったこともあり、ブラウンは敗戦の責任を問われて博古と共に解任される。
ただしその後も長征に参加して、軍事教育と研究工作にあたった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3_(%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85)
博古(はくこ。1907~1946年)。「王明、張聞天らとともにソ連に留学し、彼ら学友とともに「28人のボリシェヴィキ」を名乗り、・・・1931年9月から1935年1月まで、は中国共産党において実質的な最高指導者として活動した。指導期間中、「中国の実情を無視した極左路線」を推し進め、中央根拠地を崩壊させ、中国共産党中央と中国工農紅軍が長征に赴かざるをえない情況をつくったとして非難された。長征途上の1935年1月、中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で指導責任を問われ、最高指導者から解任された。
1941年に『解放日報』、新華社の責任者となる。1945年中国共産党第7回大会では、最下位で中央委員に選出された。
1946年・・・に重慶から延安に向かう途中、飛行機事故で死亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E5%8F%A4
⇒奇しくも、この時期、国民党軍も共産党軍もドイツ人を軍事顧問に据えていたことになります。
蒋介石としては、1929年に中ソ紛争で戦ったソ連からも1931年に満洲事変を起こした日本からも軍事顧問を迎えるわけにはいかず、ドイツから軍事顧問を迎えた、ということなのでしょうが、そもそも、彼は、日本の軍事力に対して米英独のそれに比して低い評価しか抱いていなかった、と、私は見ています。
戦後、台湾に逃げ込んでから、旧日本軍人達を軍事顧問として招聘するけれど、それは、単に、他に招聘するに適当な国が見当たらなかったからに過ぎない、とも。(太田)
かくして毛沢東は、いとも簡単に「失脚」するのである。」(78、81)
⇒この毛の「失脚」時代にも、杉山元らの帝国陸軍は、毛を支え続け、両者の紐帯はこの上もなく強化された、と、私は見ているわけです。(太田)
(続く)