太田述正コラム#14824(2025.3.16)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その13)>(2025.6.11公開)
蔣介石の北伐軍が山東省に接近するにしたがい、日本は1927年 5月28日、山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護のため、山東省へ軍を派遣する山東出兵<(第一次出兵)>を決定。日本と関東州の大連、<及び>天津から南下した日本軍は治安維持活動を開始。しかし、北伐軍は張作霖に敗北し山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退した。
9月、田中義一首相と蔣介石が会談し北伐・対共産主義戦に対する支援と日本の満洲での権益を認める密約を結んだ。・・・
⇒蒋介石は、国民党左派とソ連とが提携しての圧力に屈し、1927年9月28日に下野しており、来日してかかる「密約」を田中義一首相と結び、「密約」であったにもかかわらず、その内容を、帰途、上海で事実上公開した
https://www.history.gr.jp/koa_kan_non/tanaka_shankai.html
のは、国民党左派/ソ連への牽制、反撃が目的であり、彼には、はなから「密約」内容遵守の意思などなかったものと思われる。(太田)
<その>蔣介石が事態の収拾に成功し権力を<再>掌握すると、国民政府は、1928年4月8日に北伐を再開した。・・・
⇒蒋介石は、自身による権力の再掌握と国民党左派の抑え込みという目的を達成できたわけだ。(太田)
日本 (首相田中義一)は、中国にある既得権益及び治安の維持のため、居留民の保護の名目で山東省に軍を派遣した(山東出兵<(第二次出兵)>。この時、済南に入った北伐軍との間で武力衝突が<5月に>発生した(済南事件)。
<これを受けて、更に山東出兵(第三次出兵)が行われた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E5%87%BA%E5%85%B5 >
その後、国民革命軍は日本との衝突を避けつつ閻錫山、馮玉祥らの軍閥を傘下に加え進撃した。6月4日、奉天派の首領である張作霖が北京を撤退した後、6月8日に北伐軍が北京を占領し(その後、張作霖は用済みとして関東軍により爆殺された(張作霖爆殺事件))。6月15日に南京国民政府は「(国民政府による)全国統一」の宣言を出した。そして、父のあとを継いだ張学良が12月29日に降伏したこと(易幟)をもって、北伐は完了し、建前上は国民政府による<支那>の統一が果たされた。・・・
1929年7月、<張学良隷下の部隊の挑発を受けて、>ソ連が満洲に侵攻し、<支那>側は撃破された (中ソ紛争)。・・・」
⇒蒋介石は、田中との「密約」内容を、遵守したとは言えないほど乱暴な形で遂行して行ったわけだ。
なお、中ソ紛争は、蒋介石が、張学良の軍事力を削減しようとして、帝政ロシアからソ連が受け継いでいた満洲の中東<(旧東清)>鉄道利権の接収を命じたために起こったとする説が有力だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E7%B4%9B%E4%BA%89
が、副次的目的として、蒋介石が、自身による乱暴な形での「密約」遂行への日本の憤懣を反共姿勢を示すことでもって緩和しようとしたのではなかろうか。(太田)
10月にソ連軍侵攻に合わせて中国共産党<も>行動<を>開始する。12月22日に中華民国は敗北しハバロフスク議定書が結ばれ、中東鉄道はソ連の支配下に置かれソ連の影響力が強まった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BC%90_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A)
⇒一事が万事であり、蒋介石はその都度の謀略には長けているが軍人としては無能な弥生人だったと言ってよかろう。
結局、張学良の軍事力は削減されるどころか、壊滅的な損害を受けてしまい、このこともあって、(私見では杉山元らが引き起こした)満洲事変の時になすすべがなくなってしまったし、この時の恨みが、張学良をして1936年に西安事件を惹き起こさせることに繋がったとも考えられる。
なお、この結果、ソ連の満洲での勢力が大きくなったことで、日本の朝野に満州事変的なものの決行を求める機運が高まり、その結果として、杉山構想の完成と着手が促進された、ということも指摘しておきたい。(太田)
「ソ連軍の侵攻と示し合わせ<て>10月末に広東省の海豊・陸豊方面で行動を開始した。毛沢東・朱徳等の率いる<中国>共産<党>軍は、広東・福建・江西の省境近辺で暴動を起こし、翌年2月に瑞金で江西ソヴィエトを成立させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E7%B4%9B%E4%BA%89 前掲
⇒毛らを含む中国共産党は、1927年からこの地域で活動してきた以上、中ソ紛争により、ソ連からの援助や叱咤が増えた可能性こそあるとはいえ、遠藤がこのような書き方をすることには違和感を覚える。(太田)
(続く)