太田述正コラム#14822(2025.3.15)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その12)>(2025.6.10公開)
[蒋介石による北伐と毛沢東]
「1926年7月1日、蔣介石は、孫文の跡を継いで軍閥・北京政府撲滅を目指すとして「北伐宣言」を発表し・・・<いわゆる>第三次北伐<が始まった。>・・・
北伐はソ連のヴァシーリー・ブリュヘル<(注14)>の下で計画された。・・・
(注14)Vasily Konstantinovich Blyukher(1889~1938年)。「1924年から1927年にブリュヘルは中華民国の軍事顧問を務め、・・・国民党が中国統一を開始する北伐の立案に責任があった。この間に教育を受けた者に、後に中国人民解放軍で指導的役割を果たす林彪がいた。・・・1935年、ソ連邦元帥に任命された。
ハバロフスクを拠点に、ブリュヘルはソ連軍の指揮官として、極東における自治権力を行使していた。中国での版図を次々と拡張しソ連に敵対する日本との関係で極東は要衝であった。中ソ紛争で中国の将軍率いる部隊を撤退させた。1938年の7月と8月、ソ連と日本統治下の朝鮮国境の張鼓峰事件で日本軍に対しソ連軍を指揮した。・・・
1938年10月、恐らく張鼓峰事件で見せた無能振りと軍における当時の人望のゆえに、モスクワに呼び戻され逮捕され・・・獄死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%98%E3%83%AB
1927年・・・3月24日、南京に入城した蔣介石北伐軍の一部が反帝国主義を叫びながら外国領事館や居留地で暴行陵辱を行った (南京事件)。米英軍は艦砲射撃を開始し、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。幣原外交の日本は領事館を襲撃され、死者も出たが、自重し、イギリスと蔣介石の説得工作をおこなった。蔣介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えた。
⇒なすすべもなく、米国の圧力に屈する形で1923年に日英同盟が失効させられ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
かつまた、米国によって1924年に日本の面子を踏みにじる(いわゆる)排日移民法が施行された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
ことから、弥生人たる蒋介石は、日本が自国よりもより経済力/軍事力で上回る米国にすくみ上っている、と見るに至ったと考えられる。(太田)
1927年4月12日、南京の国民革命軍総指令・蔣介石は、上海に戒厳令を布告し、南京国民政府を組織、共産主義者とみなされた人々が粛清された。この上海クーデターに関し、日本の幣原外相らによる蔣介石への反共工作に対して蔣介石は日本側の期待に応えたとする見方もある。
⇒日本とは無関係に、単に、中国国民党内の蒋介石反対勢力の最たる容共勢力を一掃する一環として、党外の中国共産党勢力も壊滅させようとしただけだろう。(太田)
その後、上海クーデターを巡る中国国民党の武漢派(武漢国民政府)と南京派(南京国民政府)の分立(寧漢分裂)、武漢国民政府の中国共産党との決別及び南京国民政府との合流、広州張黄事変の勃発と、中国国民党内が混乱状態に陥ったため、北伐は一時停滞をみせた。・・・
⇒こういう成り行きは、蒋介石としてもある程度織り込み済みだったことだろう。(太田)
(続く)