太田述正コラム#14820(2025.3.14)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その11)>(2025.6.9公開)

「・・・中共は1927年8月7日に湖北省の漢口で緊急会議を開き、・・・「政権は銃口から生まれる」をスローガンに据えた。
 さらに・・・「党指揮槍」(党が軍を指揮する。槍は銃の意味)を党の基本とした。
 この会議を「八七会議」と称する。・・・
 <そして、>・・・中共軍<は>各地で武装蜂起を起こし、国民党軍と戦った。
 毛沢東も1927年9月9日の中秋節に5000人ほどの工農革命軍を率いて秋収起義(秋の収穫期に起こした蜂起)を起こし失敗している。
 10月に<西の>湖南省との省境にある江西省の井岡山<(注13)>(せいこうざん)に逃げ、1000人ほどになってしまった敗残兵とともに山に身を隠<した。>・・・

 (注13)「中華人民共和国江西省吉安市に位置する県級市。江西省の南西に位置し、羅霄山脈の中ほどにある井岡山を擁する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82

 <そして、>農村革命根拠地という戦略により、毛沢東は農村における勢力範囲を拡大させ、地主や富農の土地を没収して貧農に分配するという土地革命を実施して行った。・・・

⇒井岡山は江西省の西端に位置するけれど、江西省の東端は福建省であること、かつ、この毛が始めた土地均分政策が、宮崎を通じての知り得たところの宮崎民蔵唱道の政策を実行に移したと考えられることから、1926~28年の間は、杉山元自身は海外(ジュネーブ)にいたけれど、彼は1923~25年の軍事課長時代に杉山構想の策定に取り掛かっていたと私は見ている(コラム#省略)ところ、彼の留守中にも、陸軍の支那諜報組織は杉山の軍事課長当時に発した意向を受けて、支那で陸軍が提携すべき相手の候補を見つけるべく努力を続けていて、1927年の時点で毛を有力候補に選び、杉山が1928年に帰国し、軍務局長になった8月時点において、毛の勢力を提携相手に決めた、と、私は見るに至っています。
https://shirakaba.link/betula/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 ←杉山の補職歴 (太田)

 この時点で、中共軍を中心とした・・・革命根拠地は全国に<毛の井岡山のそれを含め、>10カ所以上まで広がっていた。・・・
 蒋介石は・・・紅軍を殲滅すべく、1930年12月、革命根拠地に対する包囲掃討作戦を始めた。
 第一次中共掃討作戦には10万の国民党軍兵士を配した。
 しかし殲滅することはできなかった。・・・
 1931年4月、第二次掃討作戦には20万の兵隊を当時、紅軍にかなりのダメージを与えたが、それでも殲滅できていない。・・・
 このときはまだ、コミンテルンからの支援があったのである。
 同年7月、第三次掃討作戦には蒋介石は30万の兵士で猛攻撃を行なった。
 さすがに紅軍は大きなダメージを受け・・・苦戦した。
 この戦いは9月に入っても続き、蒋介石はさらに20万の兵士を増強し、50万人態勢で紅軍を殲滅しようと作戦を練っていた。
 あともう一歩だった。・・・
 それだというのに、・・・なんと、「満州事変」が起きたのである。
 紅軍は救われた。
 日本軍が紅軍の危機を救ったのである!」(67~68、72~74)

⇒そんな話は聞いたことがありません。具体的な説明も典拠もついていないのでは、どうしようもありません。(太田)

(続く)