太田述正コラム#14832(2025.3.20)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その17)>(2025.6.15公開)
「・・・<第二次国共合作成立後、>蒋介石は元紅軍の3個軍6師団及び5個補充団に対して、国軍(国民党軍)と同じ待遇の軍費を支給していたが、<毛は、>その軍費は抗日戦争には使わず、ほとんど<を>・・・宣伝費に使<っ>てい・・・た。・・・
おまけにたとえば山西省からは・・・総計、銀円に換算して1億円以上を奪っていった・・・。・・・
最近になり突如、・・・「中国共産党新聞網」(網:ウェブサイト。中国共産党機関紙「人民日報」と情報共有)などが、盛んに当時の事実を書き立てはじめた・・・。
たとえば2013年5月15日には、「・・・抗日戦争期、中共が秘密裏に日本軍の岡村寧次<(注19)>総部と接触していたことに関する真相・・・」を特集している。・・・
(注19)1884~1966年。幼年学校、陸士16期、陸大25期。その後、中央では1928~1929年に参謀本部内国戦史課長、1929~32年に人事局補任課長、1935~36年に参謀本部第二部長、のみ。1933年に何応欽と塘沽協定締結、1944年支那派遣軍総司令官、無条件降伏を不服に思った岡村は<1945年>8月14日、「(宣言受諾は)帝国臣民を抹殺するものに斉しく帝国臣民として断じて承服し得ざる」「徹底抗戦遂行に邁進すべく御聖断」求める旨を昭和天皇に上奏。9月に中国軍に対し降伏調印する事となるが、この時の中国側代表は・・・国民政府陸空軍総司令何応欽大将だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9D%91%E5%AF%A7%E6%AC%A1
⇒岡村には中央での政策/作戦に係るポストに就いたことがなく、終戦時の言動からも、杉山構想の蚊帳の外に置かれ続けたと考えられます。(太田)
<そして、>これは「和平協議ではなく、中共軍が日本軍と戦うために日本軍から情報を聞き出すための接触であった」と書いてあるのだ。・・・
その背景<だが、>・・・2013年に入ると、中国国外の中文ネットが、1947年7月24日付の『時事公報』の記事を発見し、その古びた新聞記事の写真をネットに貼り付けたのだ。
⇒『時事公報』は支那の雑誌のようですが、発行者が誰なのか等を遠藤は記してくれていてしかるべきでした。(太田)
そこには「毛沢東と岡村寧次の売国密約」という内容が書いてあ<り、>・・・今では・・・大陸の百度(baidu)にまで転載され<てい>る。
思うに中国共産党新聞網は、この噂を否定するために、古い1986年の『揚帆<(注20)>自述』などを持ち出してきたのだろう。
(注20)不詳。
その本の中に岡<村>寧次側と中共スパイの一人であった揚帆との接触が出てくるからだ。・・・
1932年2月5日、上海総領事館・・・に副領事として着任した・・・岩井英一・・・は・・・上海<に>・・・外務省<の>情報機関を設置すべきだと<訴えたところ、>・・・重光公使<は>、・・・公使館情報部<を作った。>・・・
やがて二代目情報部長に川相達夫<(注21)>が着任し、・・・1934年8月の異動で、駐支公使館付陸武官補佐官として上海に赴任してきた・・・影佐禎昭 を・・・岩井に・・・紹介<した。>・・・
(注21)1889~1966年。一高、東大法卒、外務省入省。「バンクーバー総領事代理、青島在勤外務書記官、情報一課長、関東庁官房外事課長、米国大使館一等書記官、中国公使館一等書記官、広東、上海各総領事を歴任。1937年外務省情報部長となり、同年10月の米ルーズベルト大統領のシカゴ演説(隔離演説)に反駁談話を発表、「持てる国」<支那>に対し「持たざる国」日本が不公平是正の戦いを挑むことの正当性を主張し注目された。情報部長時代に外務省情報部の整理、統合を行う。この他、児玉誉士夫を見出し中国に行かせた。・・・1941年1月オーストラリア公使となり1943年退官したが、1945年情報局総裁兼外務次官、終戦連絡中央事務局次長として終戦処理にたずさわる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%9B%B8%E9%81%94%E5%A4%AB
⇒繰り返しになりますが、駐中公使館から事実上独立した岩井公館を作らせたのは影佐である、と、私は見ているわけです。(太田)
あるとき岩井は日中双方の記者20名ほどを集めて友好親善のための宴を催した。
その中にいたのが「新声通信社」の記者、袁学易<(注22)>(えんがくえき)である。
又の名を袁殊(えんしゅ)。」(113、126、130)
(注22)1911~1987年。黄埔軍官学校にまなぶ。東大に入学するも資金不足で中退して帰国。1931年中国共産党入党。
https://zh.wikipedia.org/zh-hans/%E8%A2%81%E6%AE%8A
岩井英一の資金提供により袁は早稲田大学に留学。
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/12125
彼は、コミンテルン、中共、蒋介石国民党側……など、「五面相スパイ」として有名だ。
この宴会には影佐も出席しており、袁殊は影佐と接触する機会も得ている。
岩井と影佐の情報は中共側の新聞にも載り、この時点ですでに毛沢東らが目をつけるきっかけを作っている。」(113、126、130~132)
⇒これよりはるか昔から毛沢東は帝国陸軍と提携していた、との私見を改めて強調しておきましょう。(太田)
(続く)