太田述正コラム#14834(2025.3.21)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その18)>(2025.6.16公開)

 「・・・岩井は1937年4月にいったん日本に帰国し、1938年2月、ふたたび上海に赴任した。・・・

⇒杉山元らが、無花果の葉っぱ兼便利屋にうってつけの岩井を外務省に頼んで呼び戻したのでしょう。(太田)

 蒋介石は日本軍が南京を攻略すると知って、中華民国の首都を南京から重慶に移していた。
 その南京に汪兆銘傀儡政権を樹立させようとしていた影佐が、岩井に「中国人による政党組織」結成を頼んできた。
 なぜなら時の平沼首相<(注23)>が汪兆銘政権樹立に当たって「蒋介石のような国民党独裁ではなく、汪の国民党を中核として、各党派各界、無党派人士をも糾合するように」と注文を出していたからである。・・・

 (注23)「第1次近衛内閣の後継内閣としての・・・平沼喜一郎<内閣は、>・・・「爾後國民政府ヲ對手トセズ」という近衛声明に基づき、汪兆銘政権を成立させ、これと外交的解決を図ることで日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような中国国民党内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E9%A8%8F%E4%B8%80%E9%83%8E

 岩井は袁殊に新党結成を依頼し、しかも任せるのである。・・・

⇒杉山元らは、そもそも、(最終的に中国共産党に政権を取らせることを意図していて、)汪兆銘政権に何の期待もしていなかった、ということが、影佐/岩井のおざなりな姿勢からも伺えるというものです。(太田)

 袁殊は新党結成に多くの地下共産党員を動員した。
 そのための工作経費は、すべて岩井の所属する日本の外務省側で負担している。・・・

⇒政権樹立工作は軍事マターとは言い難い以上、経費を外務省が負担するのは筋論からすれば当たり前でしょう。(太田)

 まだ・・・汪兆銘政府が正式に発足してはいなかったが、上海のジェスフィールド(通り)76号には汪兆銘派の特務機関が建てられており、通称「76号」として人々に怖れられていた。
 それを統括する人物で、汪兆銘政権のナンバー2となる周仏海は、袁殊の動きを非常に嫌った。
 周仏海は「岩井は共産党組織を作ろうとしている」として非難し始めたのである。・・・
 周仏海は「新たな政党を作って汪兆銘政権に送ってくるつもりなら汪兆銘政権樹立の話はなかったものと思ってくれ」と影佐にも頑強に抗議していた。・・・
 最終的に岩井<と>影佐<は>・・・新党結成運動をあきらめ・・・「興亜建国運動」という、文化思想運動へと変身<させ>ていく。
 岩井はこの興亜建国運動の主幹に袁殊を当て、岩井公館を創建した。」(133~139)

⇒なんということはない、外務省のカネで、杉山元らと毛沢東/周恩来との間の恒常的調整機関のフロント兼受付所を設立・維持することに、影佐は成功したわけです。(太田)
 
(続く)