太田述正コラム#14842(2025.3.25)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その19)>(2025.6.20公開)


[興亜建国運動]

 「汪精衛の和平運動支援のため、陸軍の影佐禎明の要請に基づき、1939年上海に組織された・・・興建運動の中心となったのは上海総領事館副領事の岩井英一とその友人で新聞記者の袁殊であった。・・・
 <この>興建運動は、日本の対中国政策の過程で、日本側の要請で組織された点、資金を日本に依存していた点、また組織が岩井英一と袁殊の個人的な関係を基盤としていた点などで、従来の和平組織・・和平陣営・・との共通点が見られたものの、一方で中国人に活動を全面的に任せた点、活動家を取り込み、学生・労働者の大規模な組織化を志向した点、また・・・日本への辛辣な批判をも辞さなかった点等で従来の和平組織とは明らかに異なる特徴を持っていた。・・・
 しかし汪精衛が東亜聯盟中国総会の設立を決めると、それまでの親日諸団体はこれに合流することとなり、興建運動も1940年12月に解散した。
 ただ運動の解散後も興建運動のメンバーは、汪政権下の言論界の活動に積極的に関わり、実質的な活動は続いたのである。・・・
 <なお、>和平陣営と・・・は日本との戦闘を速やかに停止することを重視し、その上で中国の将来や秩序を構想した人々を指す。・・・
 対日協力者(collaborator)と<の違いは、>・・・和平陣営・・・は日本との協力を必ずしも第一義としなかった・・・。
 「なぜ日本と和平を結ぶのか」<という>当然予想される問いに答えるためにも、和平陣営は自らの立場を積極的に説明する必要があった・・・。
 <また、>和平陣営の存在<は>、抗日陣営とは異なる立場で中国の将来を展望する人々に議論の場を提供した・・・
 <実際、>憲政や地方自治の問題など、中国の将来を巡る議論も多く登場した。・・・
 <更には、>和平<陣営>の主張との比較を通して、抗日論が時代の中で持った意義といったものをより正確に浮かび上がらせることができ<る>。」(関智栄「興亜建国運動とその主張–日中戦争期中国における和平論」より)
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/12125 前掲

⇒毛/周と杉山元らの連絡調整活動のフロント兼受付としての岩井公館には、興建運動本部としての積極的役割もあった、と、言えそうだ。

 つまり、興建運動は、毛/周が、政権奪取後の国家体制を構築することに資するアイディア群を、日本人の知恵も借りて模索する場として設けられた、と、見るわけだ。(太田)

 「・・・新中国誕生後、すべてのスパイが逮捕投獄されているのに対し、ただひとりだけ投獄されなかったのが廖承志である。
 なぜなら彼は日本で生まれ育ち、一度中国に帰国するも、また日本に戻ってきて早稲田大学で勉学しているので、日本語がペラペラだったからだ。・・・
 そのため毛沢東は・・・「利用できる人物」として生かしておいた。・・・
 <また、>廖承志は潘漢年らのように、日本軍や汪兆銘政権の懐の中に直接飛びこんでいってはいない。
 香港のスパイ根拠地で国共合作をいいことに、中共がその勢力を拡大するため、物資や経費の調達をする役割をしていた。
 そのため、「実情」を潘漢年たちのような実働部隊ほど生々しくは知らない。
 しかも廖承志は多くの中共スパイを岩井公館に送り込み、事実上、岩井公館を乗っ取っていた。・・・
 この事実は、むしろ堂々と中共党史に残していい功績だ。・・・」(155~156、161)

⇒そんなもん、最初から、廖承志、と、潘漢年ないし袁殊、とは、仕分けされていたに決まっているのであって、後者の2人は使い捨てにされることが運命づけられていたのです。
 この3名のこの頃までの経歴に一瞥をくれれば、私の言わんとすることをお分かりいただけるはずです。(太田)

(続く)