太田述正コラム#14844(2025.3.26)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その20)>(2025.6.21公開)

 「影佐は、・・・上海の梅花堂に・・・汪兆銘・・・の支援機関を創る・・・。
 それがやがて「梅機関」<(注24)>と称せられるようになるのだが、影佐は手記「曾走路我記(そぞろがき)」(1943年12月13日、「ニウブリテン」島「ラバウル」にて)に、これは特務機関ではない、あくまでも汪兆銘政権樹立のための援助と日本との連絡を遂行するための機関だと説明している・・・。

 (注24)「梅機関は当初は影佐機関として<1939年>6月の汪の訪日前後に発足し、8月以降、梅機関と呼ばれるようになった」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=b2c46040646d26c32e424a84f7ad6ab6db0f8cff89171f1c447d29e8593f5a04JmltdHM9MTc0MTQ3ODQwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=0eccea61-2d16-6d95-2376-ffc92cfc6c6f&psq=%e6%a2%85%e6%a9%9f%e9%96%a2&u=a1aHR0cHM6Ly9zcGMuanN0LmdvLmpwL2NhZC9saXRlcmF0dXJlcy9kb3dubG9hZC8xMzE4MQ&ntb=1

⇒杉山元らが、影佐をわざわざ終戦まで、安全だと目され、かつ、時間が有り余る毎日を過ごすことができるであろう地へと赴任させたのは、本当のことだけを彼に書かせることによって、上海に設置されていたところの、杉山元らと毛/周との連絡調整の場を永久に秘匿するためだった、と、私は見ています。(太田)

 岩井公館<も>・・・梅機関も汪兆銘政権樹立に伴い解散するが、梅機関にいた陸海軍武官らは、・・・汪兆銘政権の軍事委員会の軍事顧問となる・・・。

⇒梅機関は日本政府の公的資金で、岩井公館は外務省の公的資金で、運営されていたところ、この頃までには、「連絡調整の場」に帝国陸軍のアヘン収入からの資金とその送金ルートが確保できたことから、フロント/受付、としての梅機関と岩井公館は、どちらも用済みになった、ということでしょうね。(太田)

 1942年の春から夏にかけての時期、潘漢年は蘇州に行って李士群<(注25)>に会い、李士群とともに南京に行って周仏海と会う。
 そこで上海においては互いに「相手を攻撃せず、暴力的応酬をしない」という約束をした<。>・・・

 (注25)1905~1943年。「上海で私立美術専科学校、私立上海大学を卒業する。続いてソ連に留学して東方勤労者共産大学を卒業した。中国国民党が北伐を開始した頃に中国共産党に加入し、上海を拠点に活動していた。
 しかし1932年・・・に国民政府当局に逮捕されると、転向を表明する。国民党中央組織部調査科に属して、上海で『社会新聞』を拠点に特務としての活動に従事した。・・・
 1937年・・・の日中戦争(抗日戦争)勃発後に南京が陥落すると、李士群は上層部の指示により南京に潜伏した。翌年夏からは、香港の日本総領事館との連携を開始し、土肥原機関と接触して上海で活動を開始している。1939年・・・5月、汪兆銘(汪精衛)の配下となり、特工総部・・・(ジェスフィールド76号)・・・副主任に任ぜられた。
 8月、・・・李士群は中央委員に選出されている。<次いで>・・・中央委員会特務委員会・・・副主任委員に任じられた。これと合わせて特工総指揮部副主任と粛清委員会副主任も兼任している。・・・しかし、・・周仏海<が>・・・次第に李に対して不満を抱いたとされる。
 1940年・・・3月、汪兆銘が南京国民政府を正式に樹立すると、李士群は、警政部政務次長、特工総部主任、中央政治委員会委員を兼任した。翌月には、警政部政治警察署署長と軍事委員会委員も兼ねている。12月、警政部部長に昇格した。
 翌年からは、中日文化協会上海分会理事長、清郷委員会蘇州弁事処処長、南京清郷幹部人員訓練所所長、行政院政務委員、社会行動指導委員会委員を歴任した。1942年・・・3月に清郷地区党務弁事処主任、10月に調査統計部部長となる。翌年1月、江蘇省長に任命された。6月には新国民運動促進会江蘇分会主任も兼任している。
 同年9月6日、上海憲兵隊特高課課長岡村適三の招待で出席した宴席において、李士群は毒を盛られて倒れる。9日に蘇州でそのまま死亡した。戦後、軍統局が周仏海の裁判に提出した資料によれば、軍統と周が共謀して李を毒殺したとされる。しかし、真相は諸説が囁かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A3%AB%E7%BE%A4

⇒李士群って、当時の支那の党人派で、汪兆銘に、汚れ役をやらされ続けた揚げ句、知り過ぎた用済みの小物として消された、といったところのようで・・。(太田)

 毛沢東の指示がなかったら、敵方であるはずの汪兆銘政権とこのような密約をすることは不可能だ。」(167、172、185~186)

⇒遠藤は「密約」と、おどろおどろしくおっしゃるけれど、これ、単に、杉山元らと毛/周との連絡調整の場をつぶさないように、毛がかねてよりの親友の汪に頼み、汪がそれを了承した、という程度の話でしょう。(太田)

(続く)