太田述正コラム#14848(2025.3.28)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その22)>(2025.6.23公開)

 「
王明:私のどこがまちがっているって言うんだい?
毛沢東:どっちみち、われわれは日本人に勝てやしないんだよ。なのに、なんで日本人と戦ったりなどするんだい? 一番いいのは日本および汪政権と組んで蒋介石を打倒することだ(筆者注:この部分の中国語は「最好是聯日聯汪打蒋介石」。・・・)考えてみろよ、蒋介石は西南と西北に、あれだけ広大な地盤を残しているんだよ。もし蒋介石を打倒することができたら、われわれは西北のあの広大な勢力範囲をわがものとすることができる。そうなりゃ、大きな暴利をわれわれは手にすることができる。わかってるよ、君は私が民族を売り渡す親日路線を執行しようとしていると言いたいんだろ? 私は怖くない。私は民族の裏切り者となることなど、少しも怖くはないんだよ、わかったか!
王明:こんな重要な国際的および国内問題を、あなた一人で決定を出すなどという、いかなる権利も、あなたにはない。私とあなたの議論もまた、これによって何かを決議するということはできない。党の正常な方法で、この問題を解決すべきだ。いますぐあなたの意見をスターリンおよびディミトロフ<(注27)>に打電して報告し、中央政治局会議で討論してから決めるべきだ。

 (注27)ゲオルギ・ディミトロフ(Georgi Dimitrov Mihaylov。1882~1949年)。「ブルガリア公国<に生まれ、>・・・1902年、ブルガリア労働者社会民主党に入党、同党の分裂後、同党左派(のち共産党)に加わり、中央委員、・・・亡命中、・・・1935年、コミンテルン書記長となる(43年まで)。1935年、コミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線戦術を提起し、採択された。しかしその後、独ソ不可侵条約締結により、スターリンの指示で反ファシズム統一戦線戦術は棚上げされた。
 1945年、第二次世界大戦終結後、1946年11月26日にブルガリアに帰国し首相に就任。しかし1949年、療養先のモスクワ近郊で死去した。
 遺体は保存処理され、ソフィアのディミトロフ廟に埋葬されたが、1990年にブルガリア共産党の下野に伴いソフィアの中央墓地に埋葬され、廟も1999年に撤去された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95

毛沢東:いまは打電することはできない。そんな電報を出したら、尊敬を受けているあの2人のご老人たち・・・を怒らせてしまう。これは冗談じゃないんだ。ついでに言っておくが、この問題をすぐさま政治局会議にかけることにも、私は同意できない。
王明:なぜだ?
毛沢東:まだ機が熟してないからだよ。」(213~214)

⇒毛沢東は、杉山元らの依頼を受けて、自分が執筆した無署名記事を党機関紙に掲載して観測気球を上げようとしているのに対し、王明は、毛がスターリンの事前の許可をもらわず、しかも、党の意思決定機関に諮らずにそれを行おうとしていることを詰っているわけです。
 政治家的な毛沢東が(日本への)民族の裏切り者だとすれば、官僚的な王明だって(コミンテルン/ソ連への)民族の裏切り者、ということになるであろうところ、この口論は全くかみ合っていません。
 なお、毛が言明したところの、「われわれは日本人に勝てやしない」は、「日本人は負けることはない」ではないことに注意が必要です。
 というのも、この先の話ですが、「汪<兆銘>は日本の国力では英米・・・に対抗できないとの判断から<対英米>開戦には反対だった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98
ところ、汪の「親友」の毛も、開戦には賛成であったものの、日本は負ける、と、考えていたに違いないからです。
 ちなみに、「3月には延安に拠点のあった中国共産党が汪兆銘政権と合作すべく秘密裏に接触している<が、>これは、毛沢東の指示のもと劉少奇が共産党員の馮竜を使者に任じ、上海において周仏海に面会させたものであった。この合作は実現しなかったが、馮竜の叔父の邵式軍が中央儲備銀行の監事だったところから周仏海と親しい一方、日中戦争の際には共産党にひそかにつながっており、共産党に資金を流していたところから、この面会は邵式軍が手配したものとみられる」(上掲)ところです。
 (1944年に名古屋で死の床についていた汪兆銘への最後の見舞客は宮崎滔天の子息の宮崎龍介であり(上掲)、宮崎兄弟の思いに最も応えた支那人が汪(、そして毛)だったことが推測できようというものです。)
 要するに、毛は、日本(の杉山元ら)、及び、汪、と連携していて、ここでは、杉山元らの依頼に応えた記事を「新中華報」に載せることとした上で、王明に対して、自分の真意をほぼ包み隠さず話した、というわけであり、ここで遠藤が毛を不快に思うのは、彼女もまた、戦後思潮に染まってしまっていて、当時の、日支戦争を熱烈に支持した大部分の日本国民、及び、その後の対米英戦を、(負けることを百も承知の上で始めた)帝国陸軍の指導層、や、(勝つか引き分けにもっていけると信じて沸き立った)大部分の日本国民、のいずれも無知蒙昧視していて、当然ながら、日本が先の大戦で勝利を収めたなどとは露ほども思っておらず、帝国陸軍に嫌悪感を抱いてしまっていて、彼女の目を曇らせているからなのです。

(続く)