太田述正コラム#14850(2025.3.29)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その23)>(2025.6.24公開)

 そうであるとしても、どうして、王明の『中国共産党50年と毛沢東の裏切り行為』の漢語訳が2004年に中共で事実上の公刊がなされたのでしょうか。
 2004年というのは、胡錦涛が、中国共産党中央委員会総書記になった2002年の2年後の年であり、彼が、同党中央軍事委員会主席、つまりは、中共の事実上の最高権力者になった年であって、習近平が、国家副主席2名中の1名になった2003年の翌年であり、軍事委副主席3名中の1名になった年でもあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%8C%A6%E6%BF%A4
 私は、2002年に亡くなった(習近平の父親の)習仲勲が謎を解く鍵だと思うに至っています。
 この習仲勲が遺言で、この本の翻訳を事実上公刊することを、この時点で胡錦涛の次に中共の最高指導者になることが既にほぼ決まっていたところの、息子の習近平に命じた、と。
 そして、習仲勲は、この死の後5年経った2007年時点で、あたかも、皇帝であったかのような陵墓が故郷に造られ、そこに埋葬されます。

 「2002年5月24日、北京で病死。八宝山革命公墓に埋葬された。2007年、出身地の陝西省富平県に当時陝西省党書記だった趙楽際<(注28)>によって改葬のための古代の皇帝陵並みの巨大な陵墓が建設された。

 (注28)趙楽際(ちょうらくさい。1957年~)は、本籍は陝西西安で、父母が辺境地支援の幹部として働く青海省西寧市で生まれる。北京大学哲学系卒で、陝西省党委員会書記を務めたことがある。政治局常務委員兼中央規律検査委員会書記を経て、全人代常務委員長。[現在、中共で政治局常務委員会で、全委員7名中、総理の李強に続く第3位だ。]
 ちなみに、習仲勲の故郷は陝西省の富平県だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E6%A5%BD%E9%9A%9B 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%B1%80%E5%B8%B8%E5%8B%99%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A ([]内)

 この墓には記念館が併設され、面積は約7千平方メートル。専用道路と駐車場を含めると2万平方メートルを超えるという。・・・
 ウイグル人などの少数民族に融和的で理解がある人物だったとされ、チベットのダライ・ラマ14世と親交が深く、腕時計を贈られた。・・・
 中国で散逸し、1990年代に日本の皇室関係者経由で写本を手に入れた群書治要の研究を命じて後に刊行される『群書治要考訳』の題字を揮毫しており、2015年に新年の辞を述べた習近平の執務室の書棚に映って注目された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E4%BB%B2%E5%8B%B2

 これは、宋の初代の太祖趙匡胤とその弟で二代目の太宗の父の趙弘殷が、亡くなった956年に、後周の首都の汴京<(べんけい)>・・現在の開封・・郊外に埋葬されるも、960年に後周の最後の皇帝たる少年から趙匡胤が禅譲を受けた形で宋を建国する
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4 >
と963年に(出身地と目される)河南省の農村地帯に造られた陵墓に改葬された
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%B0%B8%E5%AE%89%E9%99%B5
ことを思い起こさせます。
 その伝で行くと、毛沢東を、趙弘殷・趙匡胤親子が支えたところの、唐滅亡後の乱世であったところの、五代、随一の名君たる後周の世宗柴栄(さいえい)・・もう一歩で支那再統一を果たすところまで行った・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E6%A0%84
に準えたくなってきます。
 実際、そういうことだったのではないか、2004年までに、習近平と趙楽際が、共同で胡錦涛を説得し、中共の国家主席を、支那の皇帝ならぬ、日本の天皇的な権威を担う象徴的ポスト、へと変貌させた上で、習近平を、この新国家主席の初代とし、その妻ないし子を通じて、彼の子孫代々に皇帝位を継がせていく体制を近い将来に構築することによって、初めて、中国共産党の事実上の一党独裁が解消された暁においても、中国共産党的(毛沢東的)体制を支那において未来永劫維持していくための必要条件が満たされること、と、そのために、直ちにそのための布石を打っていく必要があること、というラインで合意が成立したのではないか、と、私は考えるに至っているのです。

(続く)