太田述正コラム#14852(2025.3.30)
<遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む(その24)>(2025.6.25公開)

 しかし、仮にそうだとして、習近平らは、どうして、最初に、王明の『中国共産党50年と毛沢東の裏切り行為』の漢語訳の2004年における中共で事実上の公刊を行ったのでしょうか。
 それは、習仲勲から事実上始まる新王朝から、毛沢東は畏敬され続けても切り離された存在になることを踏まえれば、毛沢東の実像を逐次開示して行くことによって、突然開示された時の内外への衝撃を緩和しつつ、それでも大きな衝撃が生じた場合は、その限りにおいて毛沢東を批判する公式見解・・例えば、毛の「功績第一、誤り第二」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1 前掲
の誤りの中に帝国陸軍との連携を追加するウルトラCの公式見解!・・を出すなり、禁書指定をするなりすることが可能である、と考えたからなのではないでしょうか。
 本件に関して言えば、中共内での衝撃は殆ど生じなかったことに安堵しつつも、中共外では、例えば日本において、帝国陸軍悪者論、従ってまた、毛沢東悪者論が一切変わらないまま推移していることに、私は、当時の習らはもちろんのこと、現在では中共当局そのもの、は、落胆している、と、見ている次第です。(太田)


[改めて習仲勲について]

 1913~2002年。陝西省富平県出身。「旧メンバーからの入れ替わりの、八大元老<(注29)>の一人で中国共産党の第7期中央候補委員、第8期中央委員、第12期中央政治局委員などを歴任。・・・

 (注29)「1982年に設立された中央顧問委員会に属しながら表向きは引退した古参幹部8人が、党の最高指導部である中央政治局常務委員会(1987年11月時点での常務委員は、趙紫陽・李鵬・喬石・胡啓立・姚依林の5人)を凌ぐ権威を持っており、重要な決定は八大元老に委ねられることもあった。・・・
 八大元老は全員が革命第一世代指導者でありながら文化大革命において走資派と見做されたために不遇を味わい、それを乗り越えたことが共通点にある。・・・
 1992年に中国共産党中央顧問委員会が廃止され、1997年に中国の最高実力者である鄧小平が死去すると、中国の長老の影響力は低下したとされる。」
 成員は、鄧小平、陳雲、彭真、楊尚昆、薄一波、李先年、王震、鄧穎超(周恩来の寡婦)。後に李先念・王震・鄧穎超と入れ替わる形で、宋任窮、万里、習仲勲。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E5%85%83%E8%80%81

 1928年中国共産党入党。日中戦争期間中は陝西省、甘粛省など中国西北部で高崗らとともに革命根拠地を作り、陝甘辺ソビエト政府主席や西北野戦軍副政治委員を務めるなど、長期にわたり西北部の党、政、軍の工作の中心人物とな・・・った。・・・
 中国で散逸し、1990年代に日本の皇室関係者経由で写本を手に入れた群書治要の研究を命じて後に刊行される『群書治要考訳』の題字を揮毫しており、2015年に新年の辞を述べた習近平の執務室の書棚に映って注目された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E4%BB%B2%E5%8B%B2

 ここで強調しておきたいのは、一、習仲勲が自分の故郷を中国共産党の根拠地の一つに仕立て上げていたことが、毛沢東に長征というオプションを与え、同党が生き延びることを可能にしたこと、二、恐らく、長征の頃までに杉山元らからコンタクトがあり、毛沢東や周恩来が密かに杉山元らに通じていること、毛らが長征でこの地にやってくるであろうこと、毛らは反ソ(露)だが、ソ連(ロシア)による毛らの支援が絶たれないよう配意すべきこと、を示唆され、爾後、この示唆を踏まえた言動に務めたであろうこと、であり、また、こういったことを契機に、習仲勲が日本に対して好意を抱くようになったことであり、二に関しては、同じく陝西省出身で親ソ派の高崗(注30)を毛らから離反させないような立ち回りを続けたと想像され、おかげで、毛らは、先の大戦終戦後の国共内戦に勝利すると共に、その後、(中ソ関係悪化までの間に)ソ連から核兵器を含む技術支援を受けることを可能にしたことだ。
 
 (注30)こうこう(1905~1954年)。「1930年代の第一次国共内戦では中国西北部で習仲勲らとともに革命根拠地を建設するなどの活躍を見せた。1945年6月、第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)で中央政治局委員に選出される。第二次国共内戦が始まると、中国東北部(満州)で活動し、党中央東北局第一書記、東北人民政府主席、東北軍区司令員(司令官)兼政治委員を務め、東北部の党・政・軍を一手に掌握した。1948年には中華人民共和国の建国に先駆けて、「ソ連・東北人民政府貿易協定」を結ぶなど、独自の地方運営を行い、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との関係を深めていった。・・・
 1953年1月より、高崗率いる国家計画委員会の主導で第一次五カ年計画が発動された。中央人民政府主席兼中国共産党中央委員会主席として中華人民共和国の最高指導者の地位にあった毛沢東は向ソ一辺倒を標榜し、8月には「過渡期の総路線」を提唱して段階的社会主義化を提示した。毛沢東の方針の下、ソ連との結びつきの強い高崗が中心となって、ソ連型社会主義をモデルに中華人民共和国の国家建設が進められた。・・・
 1954年2月、第7期4中全会が開かれた。この会議は毛沢東の提案によって劉少奇が主宰することになった。そして高崗と饒漱石は、この会議において朱徳・周恩来・鄧小平・陳雲らによって「反党分裂活動を起こした」と厳しく批判され、失脚に追い込まれた。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B4%97

(続く)