太田述正コラム#14856(2025.4.1)
<檀上寛『陸海の交錯–明朝の興亡』を読む(その4)>(2025.6.27公開)

<太田>

 本日お送りするこのコラムは、、
太田述正コラム#13940(2023.12.30)
<檀上寛『陸海の交錯–明朝の興亡』を読む(その3)>

の続きです。

 「・・・朱元璋がもっとも頭を痛めたのは南人官僚と江南地主との癒着問題である。
 税のごまかし、賄賂の横行、汚職等が日常茶飯事となっていた。
 そのしわ寄せを受けるのはもちろん小農民であ<る。>・・・
 <このような>弊害にメスを入れるには絶大な権力が必要で、秩序統括者の皇帝への権力集中が不可欠となる。
 ここに朱元璋は国内の安定を待って計画的に大獄を起こし、官界・民間に峻烈な弾圧を加える中で絶対帝制を築いていく。・・・
 <こうして、>中書省・大都督府・御史台・<計12の>行中書省<、>は廃止され<、>すべての権力は皇帝に集中<させられた。>・・・

⇒前に指摘したことがありますが、朱元璋は、皇帝独裁を皇帝一人による統治によって行おうとした点が決定的に誤っていたわけです。(太田)

<この間、官界で>都合10万人の犠牲者を出して明の絶対帝政は完成を見る。・・・

⇒いずれにせよ、犠牲が大き過ぎます。(太田)

 <更に、>文字の獄<を敢行し、>托鉢僧であった自分の過去を誹謗したとして、光、禿、僧などの文字を使った者を斬刑に処したのをはじめ、あらぬ理由で難癖をつけて次々と逮捕・処刑したため、皇帝に物申す輩は完全にいなくなってしまった。・・・

⇒人間は誰であれ、過ちを犯すものですが、その過ちを指摘してくれる者も、それ以前に、過ちを犯すことを少しでも少なくするための的確な情報を上げてくれる者も、これではいなくなってしまった筈です。(太田)

 皇帝権の絶対化・神聖化<が>実現した<こと>を象徴的に示すのが五拝三叩頭(清代の三跪九叩頭)<(注7)>の礼である。・・・

 (注7)「叩頭礼は本来、神仏や直系尊属に対して尊敬の念を示すために行われた礼であった。明の時代になって、大臣たちが皇帝に示す一種の礼儀として叩頭礼が始まったが、当時は「五拝三叩頭の礼」であった。藩属国の朝貢使が入京して皇帝に会うときも、この礼をすることが必要とされるようになった。満洲人は天に対する礼拝に三跪九叩頭の礼を用いており、清が北京に入って後、三跪九叩頭の礼が明代の五拝三叩頭の礼にとってかわった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B7%AA%E4%B9%9D%E5%8F%A9%E9%A0%AD%E3%81%AE%E7%A4%BC

⇒ここまで皇帝を神格化してしまうと、過ちを犯しても、正せなくなってしまいます。
 神は過ちを犯さないからです。(太田)

 <そして、>1381<年、>綿密な土地測量(丈量)と戸口調査(編審)を経て郷村組織の里甲制が全国的に施行された。・・・
 <これ>は在地の地主層が主導する郷村秩序を、国家が上から再編・補強して生まれた郷村組織であった。・・・

⇒国民一人一人の把握を行わず、既存の一族郎党(血縁地縁集団)自治の上に乗っかった、手抜きの統治を行ったということに他なりません。(太田)

 明朝は元朝にならって戸籍制度を採用し、庶民を大きく民戸、匠戸、竈戸(そうこ)などに分けて、流動性への動きに歯止めをかけた。
 民戸の多数を占める農民は里甲制に編成されて税役が課せられ、軍戸は衛所の兵士の供給源とされた。
 手工業者である匠戸は、首都や地方の官営工場で一定期間就役し国家の必要物資を生産した。
 竈戸は沿海部で強制的に製塩に従事する塩業労働者のことである。
 戸籍制度の主旨は農民を土地に縛り付け、税収の確保を図ることにある。・・・
 商業を軽視する風<については、>明もその例外ではない。

⇒困ったことです。(太田)

 ・・・異なる戸籍間では移動が認められず、職業は基本的には世襲するものとされた。
 農民は里甲・・・<の>里内から一歩も出ることは許されず、夜間の出歩きも禁止された上、互いの行動を監視するよう義務づけられていた。」(20~27)

⇒庶民全体が、皇帝(国)との関係では奴隷へと貶められた、と、言っていいでしょう。(太田)

(続く)