太田述正コラム#14858(2025.4.2)
<檀上寛『陸海の交錯–明朝の興亡』を読む(その5)>(2025.6.28公開)

 「また商人・・・<を始めとする>一般庶民・・も移動に際しては遠近を問わずに、<用向き>や目的地を記した路引と呼ばれる通行証の携帯が求められた。

 (注8)「過所(かしょ)とは、中国の漢代より唐代の頃に用いられた通行許可証。・・・唐代には、過所に類した公文書として「公験」があり、宋代の後半には「公憑」や「引拠」と呼ばれた。清朝では、「路引」(旗人)や「口票」(庶民)と呼ばれる旅券が用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E6%89%80
 「<支那では、>古来陸上,水運の要衝に関・津を設置し,交通取締りと関税徴収を行なった<。>」
https://kotobank.jp/word/%E9%81%8E%E6%89%80-44411

⇒明の時が初めてでないどころか、漢の時から路引的なものはあったわけですから、著者が何を言いたいのか分かりません。
 問題は、秦(天下統一前の秦を含む)ではどうだったのか、です。
 私は、統一前の秦では、人民一人一人に身分証明書を持たせていたのではないか、個々人を直接掌握していたのではないか、と、想像しているのですが・・。(太田)

 庶民の間では身分的格差はなかったものの、庶民の上には官僚の家=官戸以外に、皇帝の家族や皇族の一族である宗室(皇室)、あるいは外戚・功臣などの貴族が特権層として存在した。
 一方、庶民の下には隷属民である奴婢や楽戸・妓女などの賎民がおり、庶民層からも差別視されていた。
 奴婢の所有は宗室以外、外戚・功臣にのみ認められていたが、実際には官僚や富裕層の家にも法律用語で雇工人と呼ばれる奴婢と変わらぬ身分の者が多数存在した。
 いったい、特権層・庶民・隷属民の間の身分的格差は絶対的で、身分的上昇の手段は庶民層の科挙合格だけにほぼ限られてていた。
 また官僚が罪を得て庶民にされたり、その家族が奴婢に落とされたりすることはあったが、総じていえば先の3つの階層の身分は法律的にも厳格に区別され、特に隷属民には上昇の機会がほとんどなかった。
 明初の社会は空間的・職種的な水平移動を制限しただけでなく、身分的な垂直の上下移動にも厳しい制約が存在したのである。・・・
 明朝<は、>・・・「聖諭六言<(注9)>(せいゆりくげん)」すなわち「六諭(りくゆ)」・・・<を>公布し<、>・・・各里に木鐸を置いて、高齢者や身障者に「六諭」を唱えながら毎月6回巡回させた<。>・・・

 (注9)「六諭とは、明の洪武帝が洪武31年(1398年。前年の1397年とする説もある)に発布した「孝順父母、尊敬長上、和睦郷里、教訓子孫、各安生理、毋作非為(父母に孝順にせよ、長上を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、各々生理に安んぜよ、非為をなすなかれ)」の六言をさす。なお、これは教育勅語にも影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%AB%AD%E8%A1%8D%E7%BE%A9#%E5%85%AD%E8%AB%AD

 『御製大誥<(注10)(ぎょせいたいこう)>』・・・は官僚・民衆の具体的な不正の事例と残酷な懲罰のさまを生々しく記したもので、人々の恐怖心を掻き立て行動を自重させるための勧善懲悪の書であった。・・・

 (注10)「1385年・・・10月には『御製大誥』、さらに翌年にかけて『御製大誥続編』『御製大誥三編』という訓戒書が立て続けに刊行される。これらは具体的な不正の事例と、それらに対する懲罰の様子が書かれた勧善懲悪の書であり、国子監をはじめ全国の府・州・県の教育機関に配布され、学生に暗唱が義務づけられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%97%8D%E3%81%AE%E7%8D%84

 要するに、郷村で自生的に生まれた社会秩序を国家が上から再編成し、より強固にして体制化したのが里甲制であった。」(27~29)

⇒里甲をソホーズ/コルホーズで置き換えれば、スターリン体制そっくりですね。
 悍ましいと言うべきか。(太田)

(続く)