太田述正コラム#14860(2025.4.3)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その6)>(2025.6.29公開)

 「・・・劉基<(注11)等、明初の>・・・浙東学派<(注12)は、>法で秩序を回復した先に、徳治(礼治)のプランをたててい<て、>・・・教化を通じて各自に徳(礼)を体得させ、人々が自発的に秩序を遵守するよう仕向けるのが為政者の務めだと彼らは考えた。

 (注11)劉伯温(1311~1375年)。「朱元璋に仕えて明を建国するに際し大きな功績を上げ、その後の明を安定させることに尽力した。また、宋濂と並んで当代随一の文筆家としても知られ<る。>・・・
 <支那>では魔術師的な軍師として崇拝を受けており、三国時代の諸葛亮と並び称され、明初を舞台とする小説、戯曲等に登場することが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%9F%BA 
 (注12)「伝統的な<支那>の学<派>・・・である・・・浙東学派・・・は、宋王朝で始まり、明王朝と清王朝で発展しました。その代表者のほとんどは、「良浙江東路」(現在の浙江省の銭塘江以東の都市にほぼ相当)の地域で活動していた・・・浙江省出身<の>・・・学者<達>・・・で<あり、>・・・近現代および海外の学問(特に日本と東南アジア)に大きな影響を与えてきました。 <この>東浙江学派の・・・重要な学術的方向性は「それを世界に適用する」ことです。」
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%99%E4%B8%9C%E5%AD%A6%E6%B4%BE ←Google邦語翻訳

⇒漢語世界では、劉基は浙東学派の一員とはみなされていないようです。
https://baike.baidu.com/item/%E6%B5%99%E4%B8%9C%E5%AD%A6%E6%B4%BE/2154635 及び上掲 (太田)

 これに対して朱元璋は人々の自発性を無視し、強制的に秩序を遵守させようとした。
 彼は秩序統括者としての皇帝の権力を強化し、それをもとに社会の隅々に統制を加えていった。
 力と強制で儒教的秩序を実現し、他律的に儒教国家を構築しようとしたのである。
<しかし、>明初の専制主義の高まりと絶対帝制は決して朱元璋一人の所為の結果ではない。
 それを支持する社会の空気が当時はたしかにあった。
 ただ、朱元璋の政策は社会の予想をはるかに超えて、あまりに苛烈かつ酷薄であった。
 元末の秩序崩壊を経験した中国社会は、狂気と信念の非人間的な皇帝を明初という時代に生み出してしまったわけだ。」(31~32)

⇒「元末の秩序崩壊」は元がもたらしたところ、その「元朝は理財派色目人貴族の財政運営が招く汚職と重税による収奪が重く、また縁故による官吏採用故の横領、収賄、法のねじ曲げの横行が民衆を困窮に陥れていたが、この政治混乱はさらに農村を荒廃させた。ただし、この14世紀には折しも小氷期の本格化による農業や牧畜業の破綻や活発化した流通経済に起因するペストのパンデミックが元朝の直轄支配地であるモンゴル高原や<支那>本土のみならず全ユーラシア規模で生じており、農村や牧民の疲弊は必ずしも経済政策にのみ帰せられるものではない。中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、地方では急激に不穏な空気が高まっていき、元朝は1世紀にも満たない極めて短命な王朝としての幕を閉じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
わけです。
 私としては、改めて、元を取り上げたいと考えていますが、取り敢えずの私の考えは、漢人を中心とする支那人の阿Q化、そしてそんな支那人達の一族郎党命主義の成立、の最後の一押しとなったのは元によるところの、収奪と荒廃の不安定な支那統治であった、というものです。(太田)

(続く)