太田述正コラム#14862(2025.4.4)
<檀上寛『陸海の交錯–明朝の興亡』を読む(その7)>(2025.6.30公開)

 「・・・すべての農民を・・・里甲制<(前出)>・・・に組み込み、・・・里長(老人)–甲首の身分序列を設定した。
 地主層に出自する里長・老人の身分を国家権力で上から権威づけ、里内の教化・裁判・徴税・治安維持などを任せて郷村秩序を維持したのである。
 江南地方では県の下の区を単位に糧長<(注12)>が置かれ、里長を督率して税の徴収や運搬を行うことも義務づけられた。

 (注12)「明の税糧の徴収および輸送を任務とする徭役の一種。・・・洪武4 (1371) 年に税糧1万石を出す地域を1区とし,区ごとに1名 (のち正副2名) の糧長をおいた。彼らは地方の有力地主で大きな権威をもち,なかにはそれを利用して不正を働く者もあった。しかし負担も重かったので破産する者も多く,のちには数戸共同でその任にあたる場合も生じた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B3%A7%E9%95%B7-150045

 支配層内部の身分序列の固定化も進展させられた。
 その前提として、朱元璋は科挙の受験を官立学校の学生(首都の国子監<(注13)>の監生<(注14)>と地方の府州県学の生員<(注15)>だけに限定し、「士」身分を一つの資格として固定したことである。

 (注13)「<支那>における隋代以降、近代以前の最高学府。各王朝の都(長安・洛陽・開封・南京)など)に設けられた。明代には南京と北京の二都に設けられた。・・・
 明代には国子監が教育行政と実際の教育の両方を行うことになり、国子学・太学・四門学などの教育機関が国子監に一本化された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%90%E7%9B%A3
 (注14)「国子監の学生、および学生の身分を入手した人物<で、>・・・代には挙監・貢挙・廕監・例監の4種類に分けられ・・・ていた。挙監<は、>科挙の第二試験に当たる会試に落第した挙人の中から、アカデミーに当たる翰林院から特別に選抜されて入学を認められた者を指す。「挙監生」ともいう。貢監<は、>貢生の身分を持って入学を認められたものである。「貢監生」ともいう。例監<は、>財政難に陥った国家が特別に監生の地位を金銭で売り出したものを入手して地位を得たものを指す。「例監生」「附監」「増監」とも言う。科挙を受験して役職につく正規のルートとは異なり、金銭によってそのルートを短縮しようとしたと看做されるため、しばしば卑しまれた。・・・廕監(廕生)<は、>生前に高位を与えられた、あるいは戦役などで殉職した大臣・官吏の子孫に恩典を与えて特別に入学を許可されたものを指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A3%E7%94%9F
 「貢生(こうせい・・・)は明清両代に生員(秀才)の優秀な者で、国子監で学ぶことを許可された者を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A2%E7%94%9F
 (注15)「生員(せいいん・・・)とは、・・・明朝及び清朝において国子監の入試(院試)に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得たもののことをいう。生員となったものは、府学・県学などに配属される。また、秀才と美称され、実質的に士大夫の仲間入りをしたことになり、徭役免除などの特権を得た。なお、諸生(しょせい)とは童試の中の最初の二つの試験である県試・府試に合格したもののことを指すが、院試には合格していないので科挙の受験資格は得られていない。
 郷試に合格<して挙人にな>るのは毎回400人程度であるのに対して、諸生は50万人もいたとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%93%A1

 従来、科挙の試験は賎民あるいは喪中の者を除き、儒学的教養を持つ男性ならば誰でも受験できた(もちろん資力の面から大半の庶民はのっけから不可能であったが)。
 だが明以後は官立学校に入学し、そこで士身分を獲得することが先決条件となった。
 このことは、本来郷党に出身し、社会に軸足を置いていた士が、完全に国家の側に取り込まれたことを意味しよう。
 士はある意味、国家的政治的身分となって科挙体系の最下部に位置づけられたといえる。
 これは郷試(科挙の地方試験)合格者の挙人も同様である。
 宋元時代の挙人は科挙の中央試験に落第すると、次回は再び地方試験から受け直さねばならなかった。
 しかし明代の挙人は終身資格となり、地方試験免除で中央試験の会試から再受験できた。
 そればかりか、従来は進士(科挙試験の最終合格者)のみに認められていた官僚への途も開かれ、監生ともども出仕の機会が与えられた。・・・
 明中期以降、国家の財源不足を補うために監生身分の売買(捐納)が制度化する・・・。・・・
 彼らは・・・進士<ないし>・・・官僚に準じた特権が・・・徭役免除・・・や刑罰軽減<や>・・・官界での昇進の上限などで示され、・・・明確な階層的秩序が形成された。
 この結果、・・・皇帝を頂点に、宗室(皇室)-貴族(外戚・功臣)-官僚-進士-挙人-監生-生員-糧長-里長(老人)-甲首-佃戸-隷属民の改葬的な序列<ができた。>・・・
 そもそも前近代の中国では国家と社会(民間)が明確に分離し、国家は徴税と治安維持でのみ社会と関わったとさえいわれる。
 国家の側からすれば社会は常に統制すべき客体にすぎず、歴代の王朝は社会の動向を注視しつつ、状況に応じて徳(礼)と法(刑)とを使い分けて統治した。」(36~38)

⇒よって、民間人はいかに国家による徴税と治安維持とを回避するかに腐心するようになり、この姿勢が、援納等を通じて自ずから官界にも「普及」していった結果、支那では、官も民も腐敗まみれになった、と、私は見ています。(太田)

(続く)