太田述正コラム#14864(2025.4.5)
<檀上寛『陸海の交錯–明朝の興亡』を読む(その8)>(2025.7.1公開)

 「・・・貧農出身の朱元璋にとり、海洋世界は想像すらできない埒外の境域であった・・・。
 だが王朝成立と同時に、明は海洋からの手痛いしっぺ返しを食らうことになる。
 方国珍<(注16)>・張士誠<(注17)>配下の海上勢力が、リーダーを失い捨て鉢になって、一斉蜂起したのである。

 (注16)1319~1374年。「塩の密売を行っていたが、至正8年(1348年)に海賊と繋がっているとの讒言を受け、やむを得ず数千の衆を集めて弟の方国瑛と共に反乱を起こした。・・・1366年・・・に白蓮教の教祖であった韓林児が朱元璋によって殺され、朱元璋は最大の敵の陳友諒を3年前に滅ぼしており、江南で残すのは平江路の張士誠と方国珍だけであった。同年11月、朱元璋は平江路を包囲し、張士誠も包囲に耐えたものの至正27年(1367年)9月に陥落し、張士誠は朱元璋の首都の応天府に送られて殺された。・・・
 方国珍は朱元璋と争った群雄の中で唯一天寿を全うした。・・・
 方国珍自身はその決起の時からもわかるように、別段天下を狙うなどと言う気概は無かったようだ。覇権を競うなどとは考えず、朱元璋・陳友諒・ココ・テムルなどと通好を続けており、決定的な敵対関係を作らない事に意を砕いて、成り行きに任せた末にこのようなことになったようである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%9B%BD%E7%8F%8D
 (注17)1321~1367年。「郷里で官塩の舟運の傍ら、私塩の密売にも携わっていた。財を軽んじて人を施すのを好んだので、衆人の心を得ていた・・・
 元末に各地に割拠した群雄の中で、張士誠は経済的に最も富強で、文化面でも最先進地域を支配した。だが、奢侈への傾倒が著しく、勢力拡大への意欲が欠けていた。そのことが滅亡の原因となったとされる。・・・
 <ちなみに、>羅貫中 – 張士誠の幕僚だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%A3%AB%E8%AA%A0

 特に方国珍水軍の主力であった・・・寧波(ニンボー)・・・沖の舟山群島の海民集団は屈強であった。
 彼らは各島でそれぞれ元帥を名乗る「海上の土豪・・・」に率いられ、日本から押し寄せる倭寇を引き込み、徹底して明の攻撃に抵抗した。・・・

⇒元寇中ないし元寇後に、日蓮主義的対外進出が可能なまでに日本国内の軍事力は強化されていたにもかかわらず、かかる進出が行われなかった結果、日本のこの過剰な軍事力の一部が倭寇の形で、能動的ないし受動的に、元や明に志向した、というのが私の理解です。(太田)

 この反乱の最中に明が発令したのが海禁である。
 沿海部の住民の出海を禁止して海上勢力との結託を防ぎ、海上の混乱を鎮定しようとしたわけだ。・・・
 洪武元<(1368)>年11月以降、大越(ベトナム)(明では安南と呼ぶ)、占城(チャンパ)(ベトナム南部)、高麗、日本などに使者を派遣し、朝貢をうながした・・・。
 このうち日本への使者は、五島列島付近で倭寇に殺害されたが、他の三国は明の要請にこたえて朝貢した・・・。・・・
 洪武7年(1374)9月、明は全ての市舶司<(注18)>を突然廃止する。

 (注18)「唐代玄宗の開元2年(714年)に[イスラーム商人との海上貿易(南海貿易)が始まるという新たな状況に対応して]貿易港として栄えていた広州に設置されたのが始まりで、市舶使や押蕃舶使などを長官とし、刺史や節度使が兼任することもあった。宋代に入って南海貿易が発展すると、それに伴って制度の改革整備が進み、広州に加えて泉州や明州(後の寧波)などにも置かれるようになった。
 職務は内外商人の出入国の手続きや保護・取り締まり、貨物の検査、徴税、禁制品の取り締まり、官買品の買い上げ、外国使節の接待など、非常に広範なものであった。
 元代には市舶提挙司と呼ばれ、明代にも広州、泉州、寧波に市舶提挙司が置かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E8%88%B6%E5%8F%B8
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-010_1.html ([]内)

 ・・・海民や沿海部の住民だけでなく、海商も含めたすべての民衆の出海を禁止し、蕃商の来航も禁止したのである。
 ここにいたって宋元以来の民間の海外貿易は、完全に途絶することになった。」(42~44、46、49)

⇒明の建国当時は日本は南北朝時代であったので実現は困難であったと思われるけれど、明は、元寇で勝利した日本と、従来通りの朝貢関係の締結ではなく、対等な同盟関係の締結を目指すべきでしたが、いずれにせよ、海禁政策のような退嬰的な政策をとるのではなく、海軍力の整備に正面から取り組むべきであったのに、それを怠ったわけです。(太田)

(続く)