太田述正コラム#14866(2025.4.6)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その9)>(2025.7.2公開)

 「・・・国際交流が朝貢制度に一本化したこうした体制を、・・・朝貢一元体制という。
 中国史上、正真正銘の朝貢体制が完成したのは、後にも先にも明初をおいて他にはない。・・・
 筆者はこれを海禁=朝貢システムと呼んでいる。・・・
 民間での華夷の分離策は洪武朝も後半になると、一段と強化された。
 倭寇の活動が活発化したため、沿海部に多数の城砦や衛所を設置し、数万人規模の兵士を増員して強固な海防体制を築いた・・・。
 浙江・福建では倭寇を手引きするのを恐れて、漁民の出漁すら禁止された。
 さらに山東から広東にいたる沿海島嶼部の住民を根こそぎ大陸部に移し、島嶼部の無人化で倭寇の拠点作りを阻止するなど、後世「国初、寸板も下海するを許さず」(『明史』・・・)といわれるほどの徹底した措置が施された。・・・
 朱元璋は・・・洪武13年の胡惟庸<(注19)>事件を蒸し返し、日本が宰相胡惟庸と通謀して明の転覆を企んだと難癖をつけ、日本を一方的に悪玉に仕立て上げて関係を絶った。

 (注19)こいよう(?~1380年)。「紅巾の乱などで朱元璋とともに戦<い、>・・・明王朝成立後は中書省の役人から左丞相までに出世を重ねた。しかしそれをいいことに、・・・功臣の劉基などの排除や、自身に反対する一派を徹底して弾圧して専横を極めたため、やがて洪武帝からその存在を疎まれるようになる。また劉基が病死すると、胡惟庸による毒殺ではないかという疑惑が起き、猜疑心の強い洪武帝は胡惟庸に一層、不信感を募らせた。
 そして洪武13年(1380年)、胡惟庸は日本や北元と内通して謀反を起こそうと企んだ罪により、洪武帝によって処刑された。このとき、連座によって胡惟庸派の重臣はすべて殺害されたという。これが有名な洪武帝の粛清事件の一つである胡惟庸の獄である。・・・
 しかし近年の研究においては、胡惟庸の謀反を立証する証拠は少ないため、これは洪武帝によるでっちあげであり、粛清を行うための口実とされたのではないかとも疑われている。また、これにより中書省は廃されて、皇帝の独裁権が強化されることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E6%83%9F%E5%BA%B8

 洪武19年(1386)10月のことだ。
 しかも<日本に対する>懲戒の意味を込めて、子孫に対して『皇明祖訓』<(注20)>の中で日本との永遠の国交断絶を厳命し、日本や朝鮮など「不征の国」15を列挙して無用な対外遠征も禁止した。」(50、52~53)

 (注20)「洪武6年(1373年)に『祖訓録』として分布され、洪武28年(1395年)9月の再改定を機に『皇明祖訓』に改題された。全13章から構成されており、全文が『四庫全書』に掲載されている。主に明朝の基本的な政治方針、礼制、皇族の処遇について述べたもので、成立してから明が滅亡するまで、不磨の大典として尊重された。・・・
 丞相職の禁止や親王や後宮の干渉を制限するものであったが、歴史的に夥しい弊害をもたらしてきた宦官の政治干渉を禁止する項目が一つもない。これについては、原本には含まれていたものを、宦官が密かにその条目を削ったということが噂されていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E6%98%8E%E7%A5%96%E8%A8%93

⇒『皇明祖訓』で「日本との永遠の国交断絶」を命じたというのは、檀上の勘違いではないでしょうか。
 (以下において、そんな話には、一切、言及がない。↓
皇明祖訓
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%9A%87%E6%98%8E%E7%A5%96%E8%AE%AD
不征之國
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%BE%81%E4%B9%8B%E5%9C%8B )
 なお、モンゴル等の騎馬遊牧民系の北から脅威対処に専念する意図があったにせよ、(日本に関してはさておき、)朝鮮や安南等15カ国を不征の対象にしたのは、いかがなものかと思います。
 丞相を置かないこととしたことについては、「那珂通世は・・・、「<支那>中世の丞相のうち、帝位を狙わず忠義を尽くしたのは諸葛亮の他は東晋の王導・前秦の王猛ら数名だけである」と述べ、「諸葛亮などの僅かな例外を除くと、司馬昭・劉裕・蕭道成・侯景・楊堅・李淵等の丞相職にあった人物はすべて皇帝位乗っ取りを図った。丞相職は国家乗っ取りの階段である。姦雄が帝位簒奪を図る時にまず狙うのが丞相の位であった」とさえ極言している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%9E%E7%9B%B8
という意見もあるので、判断を保留しますが、累次申し上げているように、皇帝独裁制は、皇帝が無能でも当該王朝が簡単に滅びるようなことのないように、皇帝の強力な補佐機構の整備が不可欠であるにもかかわらず、朱元璋がそれを怠ったのは、明にとって致命的でした。(太田)

(続く)