太田述正コラム#14870(2025.4.8)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その11)>(2025.7.4公開)

 「・・・北に向かっても明の領土は拡大した。
 東北方面(明代の遼東)で狩猟・遊牧・農耕を行うツングース系の女真(ジュシュン)族に対し、積極的に招撫策を施したことである。・・・
 当地はかつて渤海、契丹(キタイ)、金などの異民族王朝の統治下にあり、いわゆる中国の版図に入るのは元の時が初めてである。
 つまり永楽帝とすればクビライと肩を並べるためにも、是非とも支配下に置いておくべき境域であり、ベトナムとは別の意味で失うわけにはいかなかった。・・・
 <また、>永楽時代には海外諸国と明との間に盛んに使節が往来し、それに鄭和<(注22)>の遠征が貢献したのは事実である。

 (注22)1371~1434年?。「現在の雲南省昆明市晋寧区・・・でムスリム(イスラム教徒)の次男として生まれた。姓の「馬」はサイイド(預言者ムハンマドの子孫)であることを示し<ている。>・・・<彼が>10歳の時に明は雲南攻略の軍を起こし、翌・・・1382年・・・に梁王国は滅亡。父を殺された<彼>は捕らえられて去勢され、・・・1383年・・・頃に燕王朱棣(後の永楽帝)に12歳で宦官として献上された。洪武帝の没後に起きた靖難の変において馬三保は功績を挙げ、建文帝から帝位を奪取した朱棣(永楽帝)より宦官の最高職である太監に任じられた。さらに・・・1404年・・・には鄭姓を下賜され、以後は鄭和と名乗るようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C

⇒イスラム教徒たる宦官を最高責任者とする国家プロジェクトが、いかに、漢人王朝である明における「色物」プロジェクトであったかが、それだけで分かるような・・。
 ほぼ、永楽帝の一代でこのプロジェクトが終わったのはある意味当然だったのかも。(太田)

 ただし、・・・アジア・アフリカ諸国との友好・親善のために鄭和が出使したかといえば、決してそうではない。
 鄭和が訪問国に求めたのは臣下としての明への朝貢であり、両国間に君臣関係を結んで安定した国際秩序を築くことであった。・・・
 <それに、>見かけは朱元璋の晩年と異なり、きわめて外向き活発な海上活動を展開しているが、それは鄭和の遠征に限ったことで、民間貿易や民衆の出海が許可されたわけではなかった。
 その限りで、決して朱元璋の創出した海禁=朝貢システムを否定するものではなく、むしろその枠組みの中で最大限に海洋進出を遂げたのが、鄭和の大遠征であったというべきであろう。・・・
 モンゴル高原では、モンゴルとオイラト<(注23)>との対立の図式が定着<していた>が、明はモンゴルをクビライ直系の北元と区別し、あえて韃靼(タタル)<(注24)>と呼んで夷狄 として貶めた。

 (注23)瓦剌。「モンゴル帝国以前の12世紀にバイカル湖西部のアンガラ川からイェニセイ川に掛けての地域、現在のモンゴル国西部のフブスグルからトゥヴァ共和国の地にかけて居住していた部族集団で、元来はテュルク系であったと伝わる。・・・
 15世紀から18世紀にモンゴルと並ぶモンゴル高原の有力部族連合であった、オイラト族連合に属した諸部族の民族である。彼らは<中共>、モンゴル国の一部になった後、モンゴル民族の一員とみなされている。ロシア・・・ではカルムイク人と呼ばれ、独立した民族とされている。現在の人口はおよそ20万人から30万人。 内モンゴルなどで使われるモンゴル文字よりも明確に音をしめすトドノムという文字を持っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%88
 (注24)「「タタル」という呼び名は突厥碑文の他称に始まり、のちに突厥碑文のタタルから派生したタタル部(達靼)が自称するようになった。同じく突厥碑文のタタルから派生したモンゴルがユーラシア大陸を支配する巨大な帝国に形成すると、タタル部はその一員となるが、この時代にモンゴル帝国の遊牧民全体がヨーロッパ、中国から「タルタル、韃靼」と他称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB
 「突厥碑文(・・・Old Turkic inscriptions・・・)とは、突厥文字を用いて書かれた古代テュルク語による東突厥の碑文である。・・・自らの文字で自らの言語を記したということであり、東アジアにおいては漢民族以外で日本のかな文字とともに古い。それまでの突厥ではソグド文字/ソグド語を使用していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%81%E5%8E%A5%E7%A2%91%E6%96%87

 オイラトが明に対してわりと友好的だったのに比べ、ことごとく反抗的な態度をとったのがモンゴルである。」(62~67)

⇒女真系とモンゴル系の違いはともかく、トルコ系とモンゴル系の違いが、そのメルクマールを含め、私は、いまだに良く分かりません。(太田)

(続く)