太田述正コラム#14872(2025.4.9)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その12)>(2025.7.5公開)

 「永楽帝は・・・永楽7年(1409)、・・・10万の兵<で>攻撃させたが、・・・全軍壊滅。
 激怒した永楽帝は、ここに自ら出撃することを決意し、総勢50万の将兵を率いて・・・「モンゴル親征」<を行う。>
 これは永楽8年を第一回目として、永楽帝の死ぬ永楽22年まで前後5度敢行された。・・・
 <この>明の勢威に押されて、モンゴル・オイラトともに一時的に明に臣従し、冊封<(さっぽう)>された<。>・・・
 永楽帝は、・・・華夷一家という新造語で、自己の支配を正当化した・・・。
 彼は<こ>の観念を実体化することにも力を入れた。・・・
 親王用の冕服<(注24)>(九章冕服)が下賜されたのは朝鮮国王と日本国王だけで、他の国には郡王用の皮弁冠服<(注25)>が授けられた。・・・

(注24)写真
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=RNqIjM5W&id=0445101E626095A714D6A72ED8D03099FB979A97&thid=OIP.RNqIjM5WkshrzA2_D3SitgHaIx&mediaurl=https%3a%2f%2fpic3.zhimg.com%2fv2-07da8e427cdc7a256aa4d378edcceafa_r.jpg&exph=758&expw=640&q=%e5%86%95%e6%9c%8d&simid=608044521253656635&FORM=IRPRST&ck=5B545B8A679B042DB2312A950904B55A&selectedIndex=0&itb=0&idpp=overlayview&ajaxhist=0&ajaxserp=0
 (注25)「皮弁冠服は明朝までの<支那>の君主が儀式や朝謁に着用した装束で、明では皇帝・皇太子・親王・世子・郡王に限られ、また冊封関係にある外国君主に下賜された。東アジアでは明に冊封を受けた朝鮮国王や、日本国王に冊封された足利将軍は親王クラスの皮弁冠服であった(朝鮮の役講和で豊臣秀吉に贈られたものは郡王クラス)。冊封の際には冊封使より国王は皮弁冠、皮弁服(王服)、大統暦を賜った。最初、琉球国王は明の郡王とほぼ同列に扱われ、金銀玉をとめた七縫の筋の冠を着用したが、1755年に<支那>の皇帝の冠と同じ12縫の冠とし、玉の数を266個にした。これはそれまでの華夷秩序からすれば極めて思い上がった不遜な行為であるが、琉球は1644年に明が滅んだ後に1663年から清朝の冊封を受けたものの、清ではその衣冠制度を満州族の装束に改め(剃髪易服)、それ以前の<支那>伝統の衣冠を廃止して採用しなかったことから、問題視はされなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%AE%E5%BC%81%E5%86%A0

⇒檀上も、上掲邦語ウィキペディアも、どちらも正しいとすれば、ですが、檀上は、「親王用の冕服」ではなく、「親王用の皮弁冠服」と書くべきでした。(太田)

 また印章もこの二国だけには親王ランクの金印が、その他の国には郡王ランクの鍍金銀印(金メッキの銀印)が下賜された。・・・
 <これは、>皇帝と蕃王<(注26)>との間に擬制的家族関係を作り上げ、華夷一家の状況を天下に具現化・可視化したということだ。・・・

 (注26)「蕃王,中國南北朝時期梁、陳、北魏三朝設置的爵位。」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=0e6caec3c82f3e3be1e9828da546aee6a870604cdbdf4ef658e886db3e818fb6JmltdHM9MTc0NDE1NjgwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=0eccea61-2d16-6d95-2376-ffc92cfc6c6f&psq=%e8%95%83%e7%8e%8b&u=a1aHR0cHM6Ly96aC53aWtpcGVkaWEub3JnL3dpa2kvJUU4JTk1JTgzJUU3JThFJThC&ntb=1
 参考:「清が<支那>全土を支配する際、それに協力して各地の支配権を求められた漢人の武将をいう。代表的な藩王が雲南の呉三桂(平西王)、広東の尚可喜(しょうかき、平南王)、福建の耿継茂(こうけいも、靖南王)の三つの勢力で、これを三藩という。1673年、清の康煕帝は三藩の乱が起こると、これらの藩王の勢力を制圧して清の中央集権体制を確立した。なお、18世紀後半から<英国>がインドを征服していった過程で、地方の独立政権に対して一定の自治を与えながら、軍事保護同盟関係を結んで実質的に支配した Indian States を日本では藩王国というが、その国王を藩王とも訳している。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0802-004.html

⇒「注26」に照らせば、檀上は、ここで「蕃王」という言葉を用いるべきではありませんでした。(太田)

 その限りで、永楽帝は明朝第二の創業者というよりは、むしろ明初体制の完成者というのが筆者の彼に対する偽らざる評価である。」(67~68、72~73)

⇒(遊牧民系の(隋に続く)二度目の王朝であった唐の太宗は、直前の隋を超えさえすればよかったので比較的容易にそれを達成できたのに対し、最後の漢人系王朝であった)明の太宗は、直前の遊牧民系の元(のクビライ)を超えることを目指し、かろうじてそれを達成した、というのが檀上の主張であるところ、この説は「元々は宮崎市定が提示したものである」ようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D
 なお、唐の太宗は玄武門の変で同母兄弟2人を殺害したのに対し、明の太宗は靖難の変で甥を(事実上)殺害したわけですが、彼の母親ということになっている、(洪武帝の)馬皇后(孝慈高皇后)「には実子はおらず、他の妃が生んだ児を自らの子として育てたというのが現在の定説になっている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%B4%AA%E6%AD%A6%E5%B8%9D)
ことから、どちらも原罪であることには間違いないものの、朱元璋のそれは、李世民のそれに比べれば、遥かに軽い程度のものであった、という見方もできそうです。(太田)

(続く)