太田述正コラム#14876(2025.4.11)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その14)>(2025.7.7公開)

 「・・・<洪武帝(朱元璋)時代>に絶対帝政が成立するとすべて皇帝一人が決裁するため、文書取り扱いの秘書官として・・・正五品の・・・殿閣大学士<(注30)>が置かれた。・・・

 (注30)「のち内閣大学士とと改称」。
https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E9%96%A3-107269
 「1380年に左丞相胡惟庸の失脚を機に宰相の役所であった中書省が廃止され、皇帝の親政を望んだ洪武帝は代わりに殿閣大学士を皇帝の秘書役・・・として設置させた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A3%AB

 永楽帝はこの殿閣大学士の制を改め、単なる秘書官から機密に参与する諮問機関の内閣<(注31)>を創設した。

 (注31)「<内閣は、>清の雍正帝が軍機処を設置したため、次第に実権を奪われた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E9%96%A3-107269 前掲

 やがて「仁宣の治」をささえた三揚<(注32)>が六部<(注33)>尚書<(注34)>(正二品)を兼ねて内閣に参画したことで、大学士はその地位をにわかに上昇させる。

 (注32)洪熙、宣德、正統期における、それぞれ、楊榮、楊溥、楊寓、を指す。
https://baike.baidu.com/item/%E4%B8%89%E6%9D%A8/51914
 (注33)「<支那>、隋・唐代以降清代まで中央政府の行政事務を分担した六つの官署の総称。吏・戸・礼・兵・刑・工の各部。尚書省に属したが、元代には中書省に属し、明・清代には天子に直属、清末に廃止。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E9%83%A8-148563
 「吏部 – 官僚の人事を司る。戸部 – 財政と地方行政を司る。礼部 – 礼制(教育・倫理)と外交を司る。兵部 – 軍事を司る。刑部 – 司法と警察を司る。工部 – 公共工事を司る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9C%81%E5%85%AD%E9%83%A8
 (注34)「明が成立すると創始者朱元璋は元制を引き継いで中書省を置くが、後に皇帝独裁を目指し中書令を廃止した。しかし六部は唐宋に準じた機関として設置された。これら六部は宰相不設置となった当初、長官としてそれぞれ尚書が置かれて皇帝に直属していた。やがて後におかれた内閣大学士が実質的な宰相として六部を統率した。」(上掲)

 のちに首輔(しゅほ)(主席)大学士は絶大な権力をにぎり、実質的には宰相と変わらぬ存在となっていった。」(95~96)

⇒これは、学問上の弟子であった万歴帝が即位した1572年に首輔大学士になった張居正(1525~1582年)の下でのことです。<(注35)>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%B1%85%E6%AD%A3

 (注35)「まず考成法という・・・地方官の考課について首輔が判断できるように成る制度・・・を始め<、これにより、>・・・それまでは皇帝の秘書に過ぎなかった大学士が事実上の官僚機構のトップに立つことになった・・・。」(上掲)

 しかし、この事実上の丞相の復活は遅過ぎました。
 「万暦10年に(1582年)に<、この>張居正が死去<すると>、親政を<復活させてしまい、失政を続けた結果、>・・・「『明史』<によって>「明朝は万暦に滅ぶ」と評<されてしまった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9A%A6%E5%B8%9D
のです。(太田)

(続く)