太田述正コラム#14878(2025.4.12)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その15)>(2025.7.8公開)

 「大学士の主な職務は」皇帝決済の原案を作成することで(票擬という)、皇帝はそれをもとに裁定して指示を出す(批答)。
 この両者の間に存在したのが、内廷(皇帝の私生活の場)の住人である宦官である。
 朱元璋が徹底して宦官の政治活動を抑制したのに対し、永楽帝は出使、監軍、警察、特務など多方面で活用したため、宦官の活動範囲が一気に拡大した。
 なかでも宦官二四衙門(一二監・四司・八局)のトップに立つ司礼監は、特務機関の東廠を兼掌して官僚を監視する一方、先の票擬・批答の管理・伝達の役目を利用して政治介入を行い出す。・・・

 (注36)司礼監太監。「多いときには数万人の宦官がいたというが,とくに司礼監太監(宦官の最高位職)は内閣の首席大学士よりも権力が強く,軍事,警察,司法もまたその手ににぎられた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B8%E7%A4%BC%E7%9B%A3%E5%A4%AA%E7%9B%A3-1342311

 牢固として存在する旧体制と新社会の芽生えとが葛藤する中、その軋轢に人格破綻を起こしたのが正徳帝<(注37)>であり、独自の思弁で乗り越えようとしたのが王陽明<(注38)>であった。

 (注37)1491~1521年(在位:1505~1521年)。「即位直後からチベット仏教に傾倒し、「豹房」と呼ばれる建築物を宮中に設置、歌舞音曲を演奏し、チベット仏教経典を読経し耽色した生活を送っていた。・・・政務を省み<ず、>・・・朝政を担当したのは、正徳帝の幼少の頃からの遊び仲間だった宦官の劉瑾だった。劉瑾は賄賂政治で莫大な財を蓄え、最終的には皇位簒奪を企てた。・・・
 劉瑾の一件の後はその娯楽の対象が軍事とな<り>・・・、軍人を相手に紫禁城の中で軍事教練や演習を行ったりしていたが、それでは飽き足らなくなり、やがて親征を行うとして大軍を動員、これを自ら率いて各地へ行軍するようになった。しかしそもそも敵軍がいない中で親征とは名ばかりで、行軍先では地元の美女を誘拐して陣中で淫楽に耽るのがその最たる目的だった。・・・
 こうした度重なる親征により明の国庫は逼迫し、その穴埋めは重税でまかなわれた。民衆への過度な負担を強要する朝廷に対し、この頃各地で・・・叛乱が多発している。・・・
 水遊びをしていた正徳帝は坐乗の舟が転覆して水に落ちたことが原因で病に臥し、翌年に31歳で崩御した。崩御直前に自らを罪する詔を遺している。明はここでまた傾いた国勢をその後ついに取り戻すことがなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%BE%B3%E5%B8%9D
 (注38)1472~1529年。「伝記では「はじめは任侠の習いに溺れ、次には騎射の習いに溺れ、次には辞章の習いに溺れ、次には神仙の習いに溺れ、次には仏教の習いに溺れた」として<おり、これを>・・・陽明の五溺という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E9%99%BD%E6%98%8E
 「文臣としては明代を通じて武功第一と称され,江西福建の賊乱,宸濠(しんごう)の反乱(寧王による皇位争奪の挙兵),広西瑶(ヤオ)族の乱などを平定。はじめ朱子学を修めたが,宦官劉瑾(りゅうきん)に反対して流された貴州省竜場山中で,南宋の陸象山の心即理説をうけ,これを根本原理とし,知行合一・万物一体・致良知を主張する陽明学を確立。陽明学は客観的哲学である朱子学とは対照的に主観的哲学の色彩がこく,朱子学と並ぶ儒学の2大潮流の一つとなった。・・・」
https://kotobank.jp/word/%E7%8E%8B%E9%99%BD%E6%98%8E-38918

 その意味では2人は時代の申し子であり、まさしくこの時代の光と影を象徴する存在だとみなし得る。
 彼らはコインの裏表であり、どちらを欠いてもこの時代を理解することはできない。
 まさに激動の16世紀のとば口を飾るにふさわしい2人だといっても過言ではなかろう。」(95、106~107)

⇒「注38」と「注37」から伺えるのは、王陽明と正徳帝に共通するのは仏教と軍事に対する関心であって、前者への関心は支那人の阿Q性(支那的普通人性)への憂慮、後者への関心は支那の安全保障上の脆弱性への憂慮、に由来するものであったと考えられます。
 王陽明と正徳帝は、それぞれ、前者の憂慮に関しては、宋代の程顥が唱えた万物一体の仁(人間主義)観念の普及、
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%87%E7%89%A9%E4%B8%80%E4%BD%93%E3%81%AE%E4%BB%81-1397085
、と、タントラ密教的なものへの逃避、そして、後者の憂慮に関しては、軍事指揮官としての効果的な実践、と、兵隊さんごっこ、を行ったところ、正徳帝の方は論外として、王陽明の方も、阿Q性克服(人間主義者化)のための具体的方法論を提示することができず、また、軍事指揮官・参謀養成システム構築の提案をすることにすら思いを致せず、最後の漢人王朝に与えられた最後の自己改革の機会を漫然と逸してしまった、と批判されてしかるべきだと思います。(太田)

(続く)