太田述正コラム#14880(2025.4.13)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その16)>(2025.7.9公開)

 「・・・嘉靖帝<(注39)>・・・前期には革新的な政策が試みられた。・・・

 (注39)1507~1567年(在位:1521~1567年)。「弘治帝の弟の興王朱祐杬の次男で、先帝である正徳帝の従弟にあたる。・・・
 即位後、大学士楊廷和らの主導で正徳帝が寵愛していた銭寧・江彬を処刑して、宮中の官員を整理し、先代の弊風を一新した。・・・<これを>嘉靖帝の功績として評価する見方もあるが、実際は正徳帝の遺臣が行ったことである。・・・
 <この>嘉靖帝は傍系でありながら正統を主張したかったため、大礼の議問題が発生した。嘉靖帝は弘治帝から従兄の正徳帝を経て帝位を継承したため、形式上は弘治帝の子になり、弘治帝及びその皇后を父母とする必要があった。しかし嘉靖帝は、実父の興献王(「献」は朱祐杬の諡号)を皇考(皇帝の父)として扱うこととしたため、系譜上では弘治帝系が消滅することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E9%9D%96%E5%B8%9D

⇒「革新的な政策」が、嘉靖帝の意思によるものではなく、単に、先帝の遺志を受けて先帝の遺臣が行ったものであったことへの言及が抜けています。(太田)

 かねてより道教に帰依していた嘉靖帝だが、狂信へと変化するのは新政が終息する嘉靖20年前後のことである。
 後宮の女官らによる嘉靖帝暗殺未遂事件(壬寅宮変)<(注40)>が、それに追い撃ちをかけた。

 (注40)嘉靖21年(1542年)。「夜、楊金英ら数十名の宮女が彼の眠る寝室に押し入り、彼が眠りについたのを確認した後、紐を首にかけ、数人がそれを引き、残った者たちが彼の体を押さえつけたという。騒ぎはすぐに宮邸内を駆け巡り、皇后方氏が侍従を連れて現場に急行した。宮女らは抵抗したとされるが、最終的には全員が捕まり、拷問にかけられた上に処刑されたが、妃嬪の王寧嬪、曹端妃、宮女の楊金英らは女性ではあるが凌遅刑の厳罰で処された。・・・
 曹氏と王氏<が>、後に・・・冤罪だとわかると嘉靖帝は次第に<方皇后>を恨むようになり、この事件の5年後の1547年に方皇后の宮が火事になった際、嘉靖帝は救助を派遣せず見殺しにし、彼女を焼死させたという。・・・
 この事件<の>・・・原因<として、>・・・宮女・・・らが・・・皇帝<の>・・・亀の育成に失敗したこと<、>・・・嘉靖帝の寵愛を巡る宮邸内の争い<、>・・・嘉靖帝の残虐さに恐れたこと<、>・・・「赤鉛丸」とよばれる血と水銀が材料というおぞましい丹薬の作成を命じ<るなど、>・・・嘉靖帝の道教狂いに対する反発<、という4つの説がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E5%AF%85%E5%AE%AE%E5%A4%89

 これ以後、嘉靖帝は内廷の西隣の西苑に籠もり、不老長生のための斎醮<(注41)>に没頭する。」(117、119)

 (注41)さいしょう。「1月15日の上元,7月15日の中元,10月15日の下元の日に,それぞれ天官,地官,水官という神々に罪を懺悔する〈三元斎〉や,地獄に落ちて苦しめられている祖先の魂を救うための〈黄籙斎(こうろくさい)〉や,さらに災害を除き,帝王の長寿と天下の安泰を祈る朝廷中心の〈金籙斎(きんろくさい)〉など,斎と称するさまざまな祭りが行われた。・・・醮とは災厄を消除する方法の一つで,夜中,星空の下で酒や乾肉などの供物を並べ,天皇太一や五星列宿を祭り,文書を上奏する儀礼をいう。のちには斎(ものいみ)の儀礼と結合して斎醮と呼ばれ,この斎醮の際に上奏する文書を青詞といった。唐・宋以後,道教の代表的な祭祀として広く行われ<た。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%8E%E9%86%AE-1322638

⇒嘉靖帝は、もはや、我々が言葉を失うほどの暗愚な皇帝であったわけです。(太田)

(続く)